2025年7月20日「活き活きと生きる」ガラテヤ5:1-15 ヨハネ8:31-32

与えられたテキストはガラテヤ5:1-15、「キリスト者の自由」です。1節に「自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放してくださった」。:13節には「あなたがたが召されたのは、実に、自由を得るためでる」とあります。パウロのキリストを信じる信仰理解、キリストの十字架の信仰が与える自由について語っています。自由はパウロの信仰の本質の一つであります。ヨハネ福音書8:32に「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」、14;17に「この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っており、これからも、あなたがたの内にいるからである。」とあります。福音書記者ヨハネは信仰を「真理」で表し、「自由」との深い関係の中で理解しています。1節の「自由を得させる」の「得させる」は、ギリシャ語の「エリュセリア」で、動詞・エリュセロオー」は「解放する、解き放つ」という意味です。「自由を得るために」の「自由」は「解き放す、解放する」という意味です。「キリストはわたしたちを解き放す、解放する、自由にする」ことが繰り返されています。

ローマ7:15以下に、「わたしは、自分のしていることが分りません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。もし、望まないことを行っているとすれば、律法を善いものとして認めているわけになります。そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。わたしは、自分の内には,つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうとする意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善を行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。」とあります。パウロのキリストを知り、受け入れる前の、律法主義ファリサイ派時代の信仰と実存です。「こうすれば善いと分かっていながら、することができない」、「こうしてはいけないと、分かっていながら、してしまう」。「こうしなければならないと,分かっていながら、できない」、「なんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょか」、とパウロは言っています。この「惨め」は「厳しさ、辛さ、嫌なことを我慢する,耐える」という意味です。原語は「ただ耐える、我慢する」ではなく、希望を持って耐える」という意味です.

ローマ7;25に、「わたしたちの主イエス・キリストを通し神に感謝いたします。このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の律法に仕えているのです。」とあります。5;1には「この自由を得せるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださった。」とあります、13節には「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。」とあります。この世は不条理で、苦難を負わなければなりません。虚無、絶望、孤独で苦しみます。しかし、自由を得るために、苦難から解きはなたれるために召してくださいます。

三浦綾子さんは、「三浦綾子に出会う本」の中で、27歳の時に、オホーツクの海岸で自死しようとしたと言っておられます。戦争の責任を感じて、小学校の教師を辞められます。当時不治の病と言われた肺結核に罹り、婚約を破棄されまた。信じるものを失い、教えるべき生徒を失い、生きる目標を失い、絶望して、オホーツクの海に身を投げようとされました。しかし、不思議な導きによって、十字架のイエスに出会い。苦しめていた孤感、絶望、虚無から解放されました。パウロの言う自由は、人間の弱さ、不安、恐れ、絶望からの解放です。「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」

パウロの宣教を妨害し苦しめたのは、ファリサイ派の人々です。割礼を受けなければならないと信じ、「ネバナラナイ」ということに縛られていました。パウロは「ネバナラナイ」という呪縛からの解放を宣教しました。柏木哲夫先生は「人生の実力」の中で、「その人の本当の力は、物事が順調に進んでいる時には見えにくい。辛い、悲しい、苦しい、やるせない状況に直面した時、どのような態度で、与えられた状況に対処できるかで、その人の人生の実力が決まる。ネバナラナイ人間からシタイ人間へ、『ネバナラナイ、何々をしなければならない』を中心に生きるのではなく、『したい』ことを見出していく、しないではいられない、喜び、感謝を中心に生きる生き方に変えられてきた。」と言われます。パウロが、割礼の問題で訴えようとしていることは、そういうことだと思います。ファリサイ派の人々は「律法によって義とされなければならない」と信じています。律法主義を、別の言葉で言い換えれば、業績主義、勝ち抜くことだけを求める。この世的な価値観を絶対化する原理主義です。パウロは、「キリストの十字架を無駄にしている。キリストから引き離され、恵みから落ちている。」と言っています。律法主義ファリサイ派の人々は対立を生み出し、教会を混乱させ、パウロを苦しめました。

芥川龍之介は自死された枕元に福音書が置いてあったと言われます。彼は、聖書をよく読んでいました。ファリサイ派の律法主義を、フロムのto beではなく、to haveから生じる問題と言い、引用し、彼らは自己の義、栄誉、名誉を求めている、自分の名誉のために自分の娘を犠牲にする画家の物語を書いています。「有名になりたい野心をもった画家が。誰も描けないような絵を描くよう、大名から頼まれました。その画家は自分の娘にきれいな衣装を着せて、御輿の中に閉じ込め、その御輿に火をつけ、火の中で逃げ場を失い、泣き叫ぶ娘を観察して、その娘の姿を描いた」と言う物語です。芥川龍之介は「律法主義ファリサイ派の人々は、良い働きを重ね、業績を残し、世間から高い評価を受ける。それを救いの根源、根拠にした、また、律法主義には真の救いはない。」と言っています。

三浦綾子さんは、「人間が救われるのは、たった一人からで良い。『あなたは、わたしにとって、無くてならない人です』と言たえる存在があることです。その『一人』は、人間に限らない。神、キリストであっても良い、主イエス・キリストは、あなたの今のままを認め、肯定している。神の絶対肯定が主イエスの救いです。何かをする、良い働きをする、業績を残すということとは全く関係がありません。ただ、イエス・キリストが、わたしのために十字架に死んでくださった神の愛と恵みを信じる信仰が救いです」と述べています。

憲法学者の小林直樹さんと哺乳類学者の小原秀雄さんが、「人間とは何か」というテーマで討論されたことがあります。小林直樹先生は、「人間は中間的存在、天使と悪魔の中間であり、広大な宇宙と微小な原子との中間でもある。だからこそ、人間は高慢を捨て、感謝と責任感を持って生きていかなければいけない。」と述べていました。言い換えれば、傲慢にならないで、同時に自己卑下に陥らない。傲慢と自己卑下から解放されて、謙遜に、真実に活き活きと生き行く。パウロは「真理の言葉と神の力とにより、ほめられても、そしられても、悪評を受けても、好評を博しても、神の僕として自分を表わしている。」と言っています。柏木忠夫先生も「人生の実力」で「『人生の実力』は信仰の自由に基づいています。何にも囚われない、束縛されないで、神につながって、神の恵みを受け、自由に生きることから与えられます。」と述べています。

作家の三浦しをんさんは、「わたしたちは、理不尽な、不条理なことに取り囲まれている、それが現実です。しかし、『もっと自由になれる』と、。『もっと自由になれる、もっと活き活きと生きることができる』と、小説を通して、表現していきます」と言っています。パウロは「悲しんでいるようで、常に喜び、物乞いのようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、全ての物を所有している」と言っています。悲しい時には悲しいものです。でも悲しんでいるようで、喜んでいる。悲しみの向こう側に、イエス・キリストがおいでになられることを信じています。今は悲しみに暮れていても、イエス・キリストには悲しみを越える喜びがあることを知っています。信仰の自由を信じて、活き活き生きていきたいものです。