与えられたテキストはエフェソ2;14-16とマタイ福音書10;34-39です。エフェソ2;14-16に、「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体にして神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」とあります。「イエス・キリストは和解と平和をもたらした平和の使者、和解の主である。主に従え。」という。マタイ5;43-45には、「あなたがたも聞いているとおり『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく、敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。」とあります。イエスの平和と和解の勧めです。
与えられたテキストはエフェソ2;14-16とマタイ福音書10;34-39です。エフェソ2;14-16に、「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体にして神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」とあります。「イエス・キリストは和解と平和をもたらした平和の使者、和解の主である。主に従え。」という。マタイ5;43-45には、「あなたがたも聞いているとおり『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく、敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。」とあります。イエスの平和と和解の勧めです。弟子たちや群衆は心穏やかにイエスの教えを聞いていました。ところが、10;34-37で、イエスは「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、娘を母に、嫁をしゅうとめに。こうして、自分の家族の者が敵となる。わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者もわたしにふさわしくない。」と言われる。弟子たちや群衆は、わたしは平和の使者、和解の主と言われるイエスに全く矛盾するイエスに、驚き、怒り、どのように理解したらよいのかと戸惑いました。
マタイ福音書が編集された時代は紀元100年前後です。イエスを主と信じ告白する教会が生れ、五、六十年経ち。キリストの福音は、ギリシャ、ローマの世界の各地に伝わり、教会が生れました。律法主義ファリサイ派の人々の迫害が激しくなり、教会を壊滅させた皇帝ネロの迫害を再現するような激しい迫害が起こりました。教会は迫害に打ち克つ信仰を形成していくことが差し迫った課題でした。同時代に書かれたペトロの手紙Ⅰ4:12には、「あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません。むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びに満ち溢れるためです。あなたがたはキリストの名のために非難されるなら、幸いです。神の霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。」とあります。イエスは、混迷した時代の迫害や苦難の中を生き抜く信仰と希望とを与えています。
国際基督教大学や東京女子大の学長を歴任された斉藤勇先生は、「キリスト者であるために損をしているという思いをいつも持っていた。キリスト者でない方が、学者として、教授として、やり易かったと思う。何か発言すると、『あなたはクリスチャンだから、そんなことを言うが、日本では通用しないよ、非常識だ。』と無視され、軽蔑された。」と述べています。勿論、先生は、損をするからと言って、信仰を弱めたり、教会から離れたりすることはありませんでした。先生は「終末の時、神から『よき忠実な僕よ』と、讃えられ、目に見えない誉れを受けることを究極の目的にして来た。」と記しておられます。パウロが「わたしたち、は見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続します。」と言われるように、先生は目に見えない神の誉を求めていました。
:37節に「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。」とあります。聞いた弟子たちをはじめ、皆は驚き、戸惑い、怒りました。ギリシャやローマでは、イエスを信じる者は親不孝者、家庭の破壊者と批判しました。彼らは見えないイエスの究極的な真理を信じることができませんでした。モーセ十戒の第五戒は「父母を愛し敬え。」です。イエスも「親を愛し、尊敬する」ことを教えでいます。イエスは十字架上で息を引き取る直前に、十字得架の元でうちひしがれている母マリアを、弟子の一人に、「見なさい。あなたの母です。」と、託していきます。最後まで、母マリアを愛いていました。福沢諭吉が勝海舟に「キリスト教は孝道を重んじるか」と尋ねると、勝海舟は「彼らの親を大切にすることは、我々の到底及ばないものがあります。」と応えています。しかし、イエスは、孝道、親に孝行しなければならないという道徳倫理を教えたのではありません。イエスの言うとされたことは、親子の愛、家族愛、人間の愛は大切だが、相対的、有限的で、絶対的、永遠ではない。その意味では、究極の支えになり得ないと言う。
神谷美恵子さんは「人間について」「生甲斐について」という著書で、ハンセン病の方々を通して人間に共通する普遍的なものについて述べています。「ハンセン病に侵されることによって、真に自分の存在を支えるものを知ることができた。自分の外側にあり、取って付けたものでは究極的な支えになり得ない。わたしたち人間は、誰かに、何かに依存し、支えがなくては存在し得えない。しかし、主なる神は神自体で存在する絶対的の存在で、わたしたちの究極の支えとなる。詩編46編2節に、『神はわれらの避けどころ、また力である。悩める時のいと近き助けである。それゆえ、たとい、地は変わり、山は海の眞中に移るとも、われらは恐れない。』とあります。絶対で、永遠の神に心を寄せる。厳しい時代、生き辛い時代、混迷し、多様な価値観の時代を生き抜くには、究極的な支えである神を信じる信仰がなければならない。」と述べています。
:38節に、「また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない」とあります。イエスは、人生は不条理とであることを知っていますから、重荷を負う決心をして欲しいと言うのです。イエスは、決心し、心を決め、受け入れて負う重荷と嫌悪しながら負う重荷には、大きな違いがある。重荷を負う決心をしなさい、と言う。マルコ福音書には、イエスの十字架を無理矢理やりに負わされたキレネ人のシモンの物語があります。シモンが無理やりに負わされたと思っている限り、そこには呟き、恨み、嘆きしかありません。しかし、シモンが十字架を負う決心をすると、十字架を負う意味を見出します。イエスに代わって十字架を負うのだと、いう意味を見出すのでした。するといやいや負っていた十字架を積極的に負うようになったのです。わたしたちも重荷を負わなければならないことがあります。しかし、その重荷は仕方なく背負わされた重荷とはちがいます。決心したことによって与えられた重荷、意味を見出して負う重荷です。イエスは、重荷に意味を見出して、重荷を負って欲しいというのです。
パウロは苦難を誇りにしています。「わたしたちは、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、錬達は希望を生むということを知っています」と言っています。「あなたがたにはこの世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」と言われました。苦難の中に終末的な希望、意味を見出しなさいというのです。