与えられたテキストは申命記26;5-11とフィリピ4;10-19です。前者は、モーセがイスラエルの人々を集め、イスラエルの原点である信仰と律法を表わし、勧告している場面です。26:5以下に、「わたしの先祖は、滅びゆく一アラム人であり、わずかな人を伴ってエジプトに下り、そこに寄留しました。しかしそこで、強くて数の多い、大いなる国民になりました。エジプト人はこのわたしたちを虐げ、苦しめ,重労働を課しました。わたしたちが先祖の神、主に助けを求めると、主はわたしたちの声を聞き、わたしたちの受けた苦しみと労苦と虐げを御覧になり、力ある御手を伸ばし、大いなることとしるしと奇跡をもってわたしたちをエジプトから導き出し、この所に導きいれて乳と蜜の流れるこの土地を与えてくれました。わたしは、主が与えられた地の実りの初物を、今、ここに持って参りました。あなたの神、主があなたとあなたの家族に与えられたすべての賜物を、レビ人およびあなたたちの中に住んでいる寄留者と共に喜び祝いなさい。」とあります。モーセは、「神の一方的恵みによって生かされている。だから、得た冨を神の賜物と受け入れ、住む土地のないレビ人や寄留者や、孤児、寡婦、貧しく、弱く、小さい存在に、分け与えなければならない」と勧告しています。特に弱い者、小さい者と分け合う、共に生きる、共生を強調しています。古代イスラエルに、こんなに優しい律法が存在したこと自体、奇跡だと思います。今日のガザ地区、パレスチナ暫定自治政府問題を考えると、モーセの信仰、律法、精神はどうなってしまったのかと思わざるを得ません
作家の村上春樹さんがかつてエルサレム賞を受賞され、授与式のスピーチで、「高い壁と卵」の喩話をお話しされました。「もし硬い、高い壁と、そこに投げつけられる壊れた卵があるなら、たとえ壁がどんなに正しく、卵がどんなに間違っていても、わたしは卵側につく」と言われました。「硬くて高い壁」はイスラエルを、「卵」はパレスチナ暫定自治区ガザを意味します。イスラエルは、強力な軍事力で、パレスチナ人を追い出し、高いコンクリート壁で囲み、狭い自治区を造り、ガザ地区に押し込めました。モーセの勧告も、精神も、信仰も失っているように見えると述べられました。
パウロがコリントの教会に、迫害と貧困の中で困窮しているエルサレム教会を援助して欲しい依頼しています。フィリピ2;6-9に「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」とあります。パウロはイエス・キリストの心を心にし、見上げ、模範として欲しい」と言っています。
コリントⅡ8;8,9に、「わたしは命令としてこう言っているのではありません。他の人々の熱心に照らしてあなたたちの愛の純粋さを確かめようとして言うのです。あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。」とあります。「愛の純粋さを確かめ」は「ひとつ心で、一心になって」という意味です。意訳すると、イエスの愛と一つ心になって、貧しく苦悩しているエルサレム教会を援助したマケドニアのフィリピ教会ヤテサロニケ教会のように、コリント教会もイエスを一心に信じ、ひとつ心で、貧しく困窮しているエルサレム教会を援助して欲しい。しかし、それは命令ではない、ネバナラナイという律法ではない、福音から湧き出る恵みと感謝であるというのです。確かに献げることは、献げる人に大きな負担を掛けます。そのために、コリント教会には、損失だと反対する人が多くいました。しかし、パウロは、信仰的に見るならば、結果的には富み、豊かになると断言します。この「富む」は、「満ちあふれる、溢れ出る」と言う意味です。物質的に富むではなく、信仰的、心的に豊かになる、神との関係において、喜びや感謝が溢れ出るというのです。
パウロは「わたしは神の教会を迫害した者ですから、使徒たちの中でいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。神の恵みによって、今日のわたしがあるのです。」と、神の恵みを告白しています(コリントⅠ15:9)。神を信じる前は、頼りになる神を知りませんから、自分や自分の持ち物やこの世の物や力を頼りにし、少しでも多く得ること、少しでも大きくなることに心を使っていました。そのために、喜びに溢れるとか、心が満ちるということを知りませんでした。しかし、イエスに出遭い、イエス・キリストを愛し、信じることができました。すると、神を信じ信頼し、委ねることができ、心豊かになりました、と言います。パウロは「わたしは、自分の置かれている境遇に満足することを覚えたのです。貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべをも知っています。満腹していても、空腹であっても,物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。」と言っています(フィリピ4:11.12)。献げることは損失やマイナスになるのではなく、心が富む、豊かになるというのです。
フィリピ4:16,17に、「また、テサコニケにいた時にも、あなたがたはわたしの窮乏を救おうとして、何度も物を送ってくれました。贈り物を当てにして言うわけではありません。むしろ、あなたがたの益となる豊かな実を結んでいる。わたしはあらゆるものを受けており、豊かになっています。」とあります。この「益」は、漢字の意味は「もうけ、利得」ですが、原語は「スン・共に」と「フエロー・分かち合う」の二つのギリシャ語から成っています。「益」は「共に分かち合う、共に生きる、互いに支え合う」という意味です。当時社会は、「分かち合う、共に生きる」ことは難しい時代でした。格差社会で、多くもっている人は、さらに豊かになり、持つことができない人は、ますます貧困になる。人と人との関わりは分断され、孤立していました。自分は自分で守らなければと、自己中心になり、人間不信の社会でした。パウロはその中で、分かち合う、共に支え合う、共に生きるというのです。
犬養道子さんは、「キリストの福音は、人と神との関係を説くと同時に、人と人との関係・連帯の再構築のプロブラムである」と言って、イエスの十字架の死は分かち合い、支え合う世界の創造のためだ」と言います。また、「イエス・キリストは、狭さを破ることを示している。視界と心の狭さを果敢に破って、広く『出ること』を奨めている」と述べています。
フィリピ教会やテサロニケ教会とエルサレム教会の間には、異邦人教会とユダヤ人教会という超え難い高い壁があり、分かち合う、共に生きる事の阻害になっていました。しかし、イエスは、その壁を果敢に破って、広く出ていく力を与えました。イエスは「良きサマリア人の喩え」を話しています。あるイスラエル人の旅人が、強盗に襲われて道端に倒れていました。そこを祭司が通りかかりましたが、反対側を通って行ってしまいました。次にレビ人が通りかかりました。彼もその倒れている旅人を見て、通り過ぎて行ってしまいました。次にサマリア人が通りかかりました。サマリア人は傷ついた旅人を見て、気の毒に思い、助け起こし、心を込めて介抱し、宿屋に連れて行きました。この「気の毒に思い」は「スプランクナゼニサイ」で、「お腹を傷める」という意味です。サマリア人とイスラエル人の間には高い壁がありました。サマリア人はその壁を超えました。その人の苦悩にお腹を痛め,共感し、苦難を分け合い、支え合いました。イエスの福音は、壁を超え、苦難と試練を分け合う、支え合う、共に生きる生き方を生み出す力を与えます。富む者と貧しい者、大国と小国が壁を越えて共に支え合い、共に生きる力と希望を語っています