2025年9月21日 「神に希望を置く」 マタイ13:1

与えられたテキストはマタイ13:Ⅰ-17です。イエスが弟子たちや集まった群衆に語った御言葉です。:2節に「すると、大勢の群衆がそばに集まって来たので、イエスは舟に乗って腰を下ろされた。群衆は皆岸辺に立っていた。イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた。」とあります。そこで語られたのが「種を蒔く人のたとえ」てす。パレスチナの種蒔きは、畑に畝を作って、種を蒔くのではなく、野原にバラ蒔くように種を蒔きます。野原ですから。収穫は限られました。ですから農夫に求められることは 諦めないこと、失望しないことでした。

 8節に、「ところが、ほかかの種は良い土地に落ち、実を結んだ。あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。耳のある者は聞きなさい、」とあります、蒔かれた種は必ず実を結ぶという終末的な希望をもって、どのようなことがあっても、失望落胆しない、諦めない、というのです。教会の宣教も本質的なことは、種を蒔く人のように忍耐強く、伝道の意欲を持ち続けることであるというのです。「耳のある者は聞きなさい。」とあります。この「耳」は「力、聞く力」という意味があります。言い換えると、「聞いて始まる力」です。パウロは「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」と言っています(ローマ10:17)。信仰は、キリストの言葉の力によって始まるというのです。「耳」は「主体的に聞く」と言う意味です。意訳すると「信仰は、キリストの言葉を主体的に聞くことによって始まる」となります。

イエスは「神の国は近づいた、悔い改めて福音を信じよ。」「わたしに従って来たいならば、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。鋤に手をかけてから、後ろを顧みる者は、神の国に相応しくない。」と言って、決断を迫っています。イエスは、「あれか、これか」の決断に立たせ、主体的に神の道を歩む決断を求めます。それがイエスの宣教、働きであると思います。「種を蒔く人のたとえ」の背後には、種を蒔いても、蒔いても、実を結ばない、厳しい現実があります。皆失望落胆し、諦め、孤独と虚無に落ち込んでいました。その厳しい状況の中で、イエスは、イエスの言葉を聞き、信じ、受け入れ、神的希望を見出すことを祈っていました。

マタイは、預言者イザヤの召命物語を引用し、神の選びと派遣について語っています。イザヤは、神の「わたしはだれを遣わそうか。だれがわたしのために行ってくれるか」という言葉を聞き、「ここにわたしがおります。わたしをお遣わしください。」と答えました。すると、神はイザヤに、「民の心を頑なにせよ。聞くには聞くが、理解せず、見るには見るが、決して認めない、心を鈍くせよ」という語るべき神の裁き言葉を伝えます。イザヤが活動した時代は、イスラエルは経済的に繁栄し、豊かでした。しかし、信仰的、精神的には荒廃していました、物とお金が全て、という価値観が人々の心を荒廃させ、信仰や義や愛を喪失し混迷した時代でした。同時代のアモスは「あなたがたに飢饉が襲う、しかし、その飢饉はパンに飢えることではなく、水に渇くことでもない。主の御言葉を聞くことのできない飢饉である。」と預言しています。マタイはイザヤの「あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。心で理解せず、悔い改めない。」という言葉をも用いているように、イスラエルの人々の心から神の言葉を聞いて、理解し、受け入れ、信じるという信仰を失っていました。皆神の言葉を無視し、軽蔑し、聞く耳がないのです。しかし、神は、イスラエルの人々の頑なな心と不信仰を赦し、新しい時代を来たらせるのでした。

マタイ福音書は、イザヤの言葉を引用しながら、「新しい時代、天の国は到来した、何と幸いなことか、イエスを見ている者は。イエスの言葉を聞いて理解している者は。」と言います。「イエスの言葉を聞いて理解する」の「理解する」は「悟る」という意味があります。ギリシャ語は「スンイエームー」で、「スン・共に」と「イエームー・つながる」でなっています。つまり、「心をつなぎ合わせる、結合する」となり、「神とつながり、神と心で結合する、主と心を合わせる。イエス・キリストに繋がる」となります。意訳すると、「何と幸いなことか、イエスの言葉を聞いて、繋がる者は。」となります。パウロは、コリントⅠ15:58で「キリストに結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことをあなたがたは知っているはずです。」と言っています。種を蒔いても、石地に落ち、茨の中に落ち、実を結ばない、神は生きて、働いていないかのように見える。しかし、主につながる、霊的につながるならば、現実がどのように見えても、神は生きて働き、実を結ぶ事実が見えてくると言うのです。

:11節に「あなたがたは天の国の秘密を悟ることが許されている」とあります。マタイは「神」と言う言葉を避け、「天」と言う言葉を使います。「天の国」とは、「神の支配」のことです。神は生きておられる、神が支配者であることを信じて、生きていることです。この世では実に様々なことが起こります。「神が生きて働いておられるなら、こんなことが起こるはずがない」と思うようなことが起こります。理不尽な不条理なことが起こります。しかし、そういう不条理な現実の中で、神は生きておられると信じるのです。「あなたがたは天の国の秘密を悟ることが許されている」の「秘密」は、「分かり難いこと、奥義」という意味があります。意訳すると、神と結びついて神の奥義を知ることができる。ヨブは、サタンによって、全財産と子どもたちを奪われ、大変な試練に追い込まれます。しかし、ヨブの信仰は揺らぎませんでした。サタンはさらにヨブを滅ぼそうと、難病を患わせます。ヨブは窮地に立たせられました。神を信じ、正しく敬虔に生きていたヨブが、なぜこういう目に遭わなければならないのか。ヨブの妻は「どこまでも無垢でいるのですか。神を呪って、死ぬ方がましでしょう」と信仰を捨てるようにと言います。さすがのヨブも「なぜ母親はわたしに乳を与えたのか。なぜ母の膝はわたしを受け止めたのか。そのままにして置いてくれたら、生きていなくてもよかったのに」と言います。「もうわたしを滅ぼしてください」と神に向かって迫っています。しかし、絶望、諦め、孤独、虚無ではありません。「こんな惨めな、不条理を許す神は、神ではない、神はわたしを裏切った」とは言いません。神に向かって、邪悪な思い、嘆き、訴えをそのままぶっつけています。ヨブは、理不尽な苦痛に囚われながら、神に訴えています。一貫して、神に直接的に向かっています。神につながっています。神に結びついています。それはイエスが求めている信仰です。良い地に蒔かれた種は、百倍、六十倍、三十倍の実を結ぶ。神は本当に生きておられるのか、わたしを見捨てたのではないかという状況の中で、なお忍耐し、信じ、神に希望をおいて生きる時、イエスの神は必ず応えてくださいます。