聖霊降臨日(ペンテコステ)与えられたテキストは使徒言行録2:1-4です。;2、:3節に「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。」とあります。これは聖書特有な表現で、神が自らを現すとき、或いは,神がそこにおられることを表わす象徴的な表現です。ですから実際どのよう風が吹いたのか、どのような炎だったのかということは本質的な問題ではありません。そこに起こった出来事が重要です。つまり、弟子たちの身の上に起こったことが本質的な問題です。
;3節に「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。」とあります。この「舌」は、ギリシャ語で,「グローサ」といい、「国語、言葉」という意味です。意訳すると、「聖霊は言葉となって、弟子たちの上に降り、弟子たちは言葉を語るようになり、言葉の証人となった。」となります。:4節に「すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、他の国々の言葉を語りはじめた。」とあります。「他の国々の言葉」の「国々」ですが、原文にはありません。岩波訳は「異なる言葉で語り出した」となっています。意訳すると、「すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、異なる言葉で語りだした。」となります。「異なる言葉で」は、「今までとは違った言葉で」という意味です。今まで、絶望的なこと、不平不満、呟き、愚痴、恨み、人の悪口を言っていたが、聖霊に満たされた、その時からは、神を賛美する言葉、喜びや感謝の言葉を語るようになったというのです。使徒1;8に「なたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力受ける。そして、エルサレムとサマリアの全土で、また、地の果てまで、わたしの証人となる。」と約束されているように、新しい存在に変えられるというのです。
旧約聖書のサムエル記上に、主の霊がサウルに降る物語が記されています。10;6に「主の霊があなたに激しく降り、あなたも彼らと共に預言する状態になり、あなたは別人のようになるでしょう。」とあります。この「別人」は「become another man」と言い、人が生まれ変わるように変化することを意味します。この言葉はサムエルがサウルに言った言葉です。サムエルはサウルを王に立てようとし、ミツバに民衆を集め、即位式をしようとしました。しかし、肝心のサウルが来ないのです。サウルは、王になることを恐れて、逃げ出し、荷物の間に隠れていました。サウルは、この世的には立派な人物に見えましたが、本質は、臆病で、命を賭けるという気概がありませんでした。自信のない、弱い人間でした。しかし、その弱虫のサウルが、主の霊を受けると、別人のように変わるのでした。神から託された使命を果たす存在に変えられるのでした。
士師記のギデオンは、イスラエルを苦しめたミデアン人と戦うために、主に召されました。しかし、ギデオンは主の召しを恐れて、人の目を避けて、酒舟(ぶどう酒の造る樽)の中に隠れて、麦を打っていました。ギデオンは臆病で、小心者でした。しかし、聖霊を受けると、正に別人のように変わりました。勇気と希望が与えられ、ミデアン人、アマレク人と戦い、滅ぼすことができました。主の霊が降ると、新しく変えられ、神の器、神の道具となって、神の使命を果たして行く存在となりました
ペンテコステ・聖霊降臨は、旧約聖書時代の収穫祭と関係があります。イスラエルの人々が、40年の荒れ野の苦しい旅を経て、ヨルダン川を渡り、カナンに定着し、農業を営み、小麦が豊かに実を結んだとき、収穫を喜び、神に感謝を献げました。詩編126編5,6節に、「涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は、束ねた穂を背負い、喜びの歌を歌いながら帰ってくる。」とあります。荒れ野に種を蒔くことは大変な労苦です。しかし、その労苦に勝る収穫、手応え。神の導きの感謝を歌っています。ペンテコステはその収穫の喜びと神の導きに関係があります。
ペンテコステを経験している群れ、教会の中には、ペトロやヨハネをはじめ何人かの人が、かつてガリラヤの漁師でありました。ガリラヤの漁師は、自然を相手にする仕事ですから、危険で辛いことが多くありました。夜明け前から漁に出て 一晩中働いても雑魚一匹獲れず、失望落胆の日々が、何日もありました。石川啄木の「働けど働けど我が暮らし楽にならざりじっと手をみる」ではありませんが、虚無と絶望感で、生きている充実感が得られないでいました。しかし、主イエスに出会い、信じ、従うことによって、漁師時代に得られなかった手応え、充実感を与えられたというのです。
彼らは主イエスに招かれて弟子になりました。主イエスに従って行くとき、いろいろな苦難と試練とに出会いました。反対や妨害に出会い、孤独でした。種蒔きの喩のように、蒔いても、蒔いても種は実を結びません。種は固い石地に落ちて芽が出ず、鳥が来て食べてしまいました。種は茨の中に落ちて、茨に塞がれて芽は伸びず、実を結びません。砂を噛むような空しい思いをしていました。しかし、主イエスと出会い、主イエスを信じる信仰の人生は、虚無と絶望で終わらないと言うのです。網を上げられないほど魚の収穫、手応えをあったように、信仰の手応え、永遠の収穫と希望を経験しました。それがペンテコステです。
ヨシュアは、「わたしに霊を与えてください」という祈りを捧げています。ヨシュアが、年を重ねて老人になったときの祈りです。人は何を得たか、得なかったという価値観で、人生を振り返り、得なかったことを後悔し、虚しい思いをし、苦しみます。それは、自分の目から過去を振り返るからだと思います。それは悲惨、虚無だと思います。そうではなく、神の目から過去を見なければならないと思います。神の目から見る過去は、人の目で見る過去とは、全く違って見えます。何を得たか、何を得なかったかという価値観ではなく、すべての事柄に神が働いて、神の恵みが与えられたと受け入れることができます。小さくて人の目に見えなかった神の恵みが、神の目から見れば、輝いて見えます。感謝と喜びで満ちて見えると言うのです。その人の人生を神が「良し」と肯定しているからです。それが神の聖霊が降る、聖霊が注がれる、聖霊降臨、ペンテコステです。