2026年2月1日 「人間をとる漁師にする」エレミヤ1:4-10 マルコ1:14-20 

与えられた御言葉は エレミヤ1:4-10、マルコ1:14-20で、エレミヤが預言者に、ペトロペが召命され、弟子に招かれた記事です。エレミヤ書1;4以下に,「主の言葉がわたしに臨んだ。『わたしはあなたを母の胎内に宿る前から、あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に、わたしはあなたを聖別し、諸国民の預言者として立てた。』。わたしは言った。『ああ、主なる神よ、わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから。』しかし、主はわたしに言われた。『若者にすぎないと言ってはならない。わたしがあなたを、誰のところへ、遣わそうとも,行って、わたしが命じることをすべて語れ。』」とあります。

エレミヤが預言者に召された次第です。エレミヤは若者にすぎないため、語る言葉を知らないと堅く拒絶します。しかし、神は、「若者にすぎないと言ってはならない。わたしが命じる、だれのところへ、遣わそうとも、行って、わたしの命じるすべてすべてを語れ」とあります。この「語れ」ですが、原語で「カーラー」と言い、さまざまに解釈されます。協会訳は、「語らなければならない・must」です。共同訳は「語れ」で命令形です。命令ですから、従うか、従わないかの自由があります。従えば、栄光か、従わなければ、滅びです。また、或る翻訳者は、「なる、する、shall」と解釈し、「わたし(神)が、語るようにする、わたしが語るようになる。」と訳しています。「主なる神、ヤハウエは、人を創造し、成長させ、語れるようにすると解釈しています。神はエレミヤをエレミヤに、ペトロをペトロに育て、導き、ならせる神であるというのです。つまり、「わたしの命じることをすべて語るようになる」となります。「語れ」を「語らなければならない、ネバナラナイ」という解釈では、エレミヤが語ることができず、万国の預言者になることはできなかったのではないでしょうか。「語るようにする、万国の預言者にする」という神の約束があるので、エレミヤは神の約束を信じ、「ナリタイ」という思いをもち、使命を抱くことができ、預言者になり、語れるようになったと言うのです。

マルコ1;16以下の「四人の漁師を弟子にする」では、ペトロの召命は、イエスの「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言う言葉で、召命が与えられました。「わたしについて来なければならない」ではありません。「わたしが漁師にしよう、I willがあります。わたしがあなたを漁師にしよう、する」です。「わたしが」というイエスの思いがあるから、ついて行くのだと思います。ここでも、ペトロの心に「want ・~ついて行きたい」という思いが起こっています。それが大事です。パウロは、フィリピの信徒への手紙で、「神はあなたがたの内に働きかけ、その願いを起こさせ、かつ実現に至らせる」と言っています(フィリピ2:13)「願いを起こさせる」の「願い・セオー」は、「喜んですること、自ら進んですること」を意味します。「起こす」は「造る」です。神はわたしたち心の内に喜んですること、自ら進んですることを造ると言います。

ペトロ召命記事が、ルカ福音書5章に記されています。ルカの神学がありますが、ペトロとアンデレは夜通し働きました。一晩中、網を打ち、魚をとっていました。しかし、何も獲れませんでした。働いても、働いても、働いても、何も成果がありません。打ちひしがれて、ガリラヤ湖の浜辺に座り込んでいました。その時、イエスが近づいてきました。そして、「もう一度、舟を出して漁をして御覧なさい」と言われました。ペトロは「それは無駄です。これまでの経験や知識から見て、やっても駄目です。今日は駄目です。魚はここにはいません」と答えました。「しかし、お言葉ですから、舟を出し、網を降ろしてみましょう。」と言って、降ろしました。すると網を上げられないほど、おびただしい魚が獲れました。ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です」と叫んだと言うのです。「漁をしてみなさい」。「降ろしてみましょう」。どこにも「ネバナラナイ、義務」はありません。しかし、お言葉ですから」。イエスの言葉は、彼らの心のうちに働きかけて「やってみよう、やってみたい、シタイ・want 」を起こすのです。

羽仁もと子さんは、「人間の中の生き方には二種類あって、一つは『やってみよう、もう一つは『どうせ駄目だ』という生き方です。『やってみよう』は神さまに造られた本性です。どうせ駄目は、神さまに逆らう罪と言えます。神さまは本当に自分のしたいことをすることを喜ばれ、ネバナラナイ・義務感や気兼ねからすることは喜ばれません。『シタイという思いから起こる行為』は、ネバナラナイ・義務感からする行為より強く、長続きがすると思います。』と述べています。或る先生は、身体が不自由になって、礼拝に出られなくなり、初めて、待ちきれない思いで出掛けています。聖書を読むのも、ネバナラナイのではなく、読みたい、喜んで読める。これが本質であることに気づかされ、これまでに増して、力が与えられ、恵みを受けている。そういう生き方が与えられるのが、イエスの信仰であると思う、と述べています。

柏木哲夫先生は、「教会は、『ネバナラナイ』ではなく、『シタイ』が行動の原則でなる」と言います。パウロは「キリストの愛に促されて、そうせずにはいられない、それが行動の原則であると言います。「礼拝に出席しなければならないから、出席する、奉仕しなければならないから、奉仕する、ではなく、「出席したい、出席しないではいられないから出席する「奉仕をしなければいられない」から「奉仕をする」。「聖書を読みたい、祈りたい」が信仰の「愛したい」「許したい」です。「must・ネバナラナイ」ではなく、「want したい」が、信仰の原則だと思います。