2026年1月11日 「わたしの愛する子、わたしの心に適う者」  マタイ3:13-17

与えられたテキストはマタイ3:13-17のイエスが洗礼を受けるところです。イエスは洗礼を受けるために、生まれ育ったガリラヤからヨルダン川で洗礼運動をしていたバプテスマのヨハネのところを訪ねます。

:14に、「ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。『わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。』」とあります。ヨハネは、「神の裁きは避けられない。悔い改めにふさわしい実を結べ。」と、悔い改めた者に、ヨルダン川に身を沈め洗礼を行っていました。ヨハネは、イエスは神の子であり、罪がないことを知っていましたから、罪の悔い改めのバプテスマを受けることは考えられないことで、逆に、罪人である自分の方が、イエスからバプテスマを受けるべきだと、考えていました。

:15に、「しかし、イエスはお答えになった。『今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。』」とあります。この「正しいことをすべて行う」は、「神の子であるイエスがあらゆる面で人間と等しくなること、神の子であるけれども、わたしたちと同じ苦しみ、同じ孤独、同じ絶望を経験しなければならない」ことを意味しています。ヘブライ人の手紙2;17,18に、「イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を贖うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。事実、御自身、試練を受けて苦しめられたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。」とあります。イエスは全ての民を贖うために、すべての点で人間と同じようにならねばならなかった。イエスが主になるために避けられない道でありました。イエス御自身が試練を受け、苦し結びのは、試練を受けている者を贖い、赦し、救うためであるというのです。イエスは、十字架上で「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになるのですか」と、叫んでいます。「神はいない」という絶対孤立、絶望、苦難、虚無を経験されました。絶対孤立、絶望の叫びはわたしたちを孤独や絶望から救うためでした。わたしたちが孤独と虚無の中に置かれるとき、「わたしはあなたを見捨てて、孤児にはしない」と、慰め、支えになってくださるための苦しみで、苦難、苦悩を共にするイエスです。

:16に「イエスは洗礼を受けると、すぐに水の中から上がられた。そのとき、天が開いた」とあります。これは、イザヤ書63:19の「神よ、どうか、天を裂いて降ってください。御前に山々が揺れ動くように」という言葉の成就です。イスラエルの民がバビロン捕囚で、全く希望を見いだせない状況に置かれたとき、「神よ、どうぞ今その天を開いて、閉ざしている雲を追い払って、山々が揺れ動くような御業を行ってください」と祈りました。すると、祈りが聞かれ、黒雲に覆われていた天が開き、黒雲が二つに割れ、青空がのぞき、日の光がさしてきた、と言っています。ヨハネ黙示録では、ヨハネが迫害に遭い、パトモス島に閉じ込められ、暗闇でなにも見えない、四方八方塞がりの中に置かれました。そのとき、主に促されて、「天を仰いで見ると、開かれた門があった」と言います。四方八方が塞がれても、天には開かれた門がある。信仰には、もう駄目だとか、もう終わりだということはない。万事休すの向こう側に可能性がある、打開の道があると、主イエスも、ヨハネも自らの体験から証言しています。

;17に「そのとき、『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。』」とあります。「心に適う者」とは、「意にかなう、喜びとする」という意味です。この言葉はイザヤ書42;3の「傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく、裁きを導き出して、確かなものとする。」という預言の成就です。わたしの僕、傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことのない優しい、真実な主です。世の王のように権力をもって支配するのではなく、真実と愛をもって真理と道を示されます。律法学者は、「あなたは、どうして徴税人や罪人や重い皮膚病人と一緒に食事をするのか」と厳しい批判をします。すると、イエスは「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と答えています。世の人々が求める救い主とは違った救い主です。それが神の心に適っていると言うのです。

「これはわたしの愛する子」は、詩編2:7「お前はわたしの子だ。きょう、わたしはお前を生んだ。わたしに求めよ、わたしはもろもろの国を、嗣業としてお前に与える」という言葉の成就です。元来は、困難な情況の中で即位する王を励ます言葉、即位式の宣言です。南ユダ王国のアハズ王が、シリヤ・エフライム連合軍にエルサレムを包囲され、絶体絶命の窮地に立たされたとき、アハズは風に揺れる林の木のように動揺しました。そのとき、神は「お前はわたしの子である。わたしはお前を産んだ」と、言って、アハズを励まし、勇気づけています。「これはわたしの愛する子」の「愛する」は「肯定する、わたしが『よし』とする」という意味です。創世記1:31に、「神がお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」と記されています。「極めて良かった」とは「神の肯定」です。神は、主イエスを通して、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適った者」と言っているのです。「主イエスに「よし」」と肯定されているのです。

河野進という詩人に「天窓」と言う詩があります。「部屋が暗いから 屋根に小さい天窓を作った。太陽の光が射し込んで、不思議なほど明るくなった。そうだ、心がうっとうしいとき、すぐ祈りの天窓を開こう。天窓とはうれしい名だ」と。誰でも暗い部屋に閉じ込められているような経験はあります。多くの苦しみがあります。難しい人間関係があります。重荷を負わされます。しかし、天窓を作ったら、不思議に明るくなりました。信仰の天窓です。「恐れるな。わたしはあなたを贖う。あなたはわたしの名を。わたしはあなたの名を呼ぶ。わたしの目にはあなたは値高く、貴い」と、言ってくださる。「わたしの愛する子、わたしの心に適った者、わたしが『よし』とする」と寄り添い、受け入れてくださっています。御言葉を信じて、確信し、希望をもって歩んでいきましょう。