与えられたテキストはマタイ4:1-11です、イエスが荒れ野で悪魔の誘惑を受けたところです。;1に、「さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、霊に導かれて荒れ野に行かれた。」とあります。この1節は「悪霊の誘惑」の柱、枠組みです。「霊」ですが、3;16によれば、イエスが洗礼を受けたときに、天からハトのようくだってきた霊で、”神”のことです。その神がイエスを荒れ野に導かれたというのです。人をも寄せ付けない荒れ野、エジプト脱出の際には、飢えと渇きで何人もの人を死に追いやった恐怖の荒れ野です。その「死と恐怖」の荒れ野に、霊なる神は愛する我が子イエスを導いたと言うのです。これは尋常なこととは考えられない、不可解な事実です。イエスが洗礼を受けたときに、神御自身が、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者である」と宣言しています。その神が愛する子を荒れ野に導き、悪魔の誘惑を受けさせるとは、あってはならない、不条理なことです。しかし、そこに神の意図とみ旨があるというのです。イエスを救い主,すべての人の罪が赦される贖い主にするという神のみ旨、御心があるというのです。イエスが救い主、贖い主となるためには、経なければならない道,負わなければならない苦難、打ち勝たなければならない試練というのです。;1の「イエスは悪魔から誘惑を受けるため」の「ため」は、「受けなければならない」と訳され、神の必然を意味します。その試練と苦難を回避したら、救い主なることはできないのです。荒れ野の試練、悪魔の誘惑は、どうしても負わなければならない試練であるというのです。
このイエスの悪魔の誘惑物語に対応するのが、アダムとエバの物語です。アダムとエバが蛇の誘惑と戦うところです。蛇は、エバに「神は、園のどの木からも食べてはいけないなどと言うはずはありません」と言います。すると、エバは「神は、『園の中央に生えている木の実だけは、食べてはいけない。それを食べると死ぬ』とおっしゃいました。」と言います。蛇は「決して死ぬことはない。食べると、目が開き、神のようになる。神はそれを望んでいます。食べると、美しく、賢くなれます。」と、エバを誘惑します。遂に、エバは食べてしまいます。一緒にいたアダムに与え、アダムも食べる、という物語です。アダムとエバが神に創造された人間として生きるためは、蛇の誘惑と誘いに勝たなければならなりません。しかし、エバとアダムとは共に敗れました。その結果、人間に罪と死が入り込み、虚無と孤独と絶望と死を負うことになりました。その救いのために、イエスは遣わされました。蛇と悪魔の誘惑と戦いに勝利しなければなりません。それがイエスの使命と目的です。
イエスが洗礼を受けたとき、天から「あなたはわたしの子、わたしの心に適う者である」という神の言葉がありました。「わたしの子、心に適う者」とは、イザヤ書42章や53章に出てく「苦難の救い主」のことです。すべての人の救いのために苦難を負い、自分を犠牲にする救い主です。イエスは苦難を負い、十字架の道を歩むことによって、救い主、キリストのなるのです。イエスが「エルサレムに登って行って、苦しみを受け、十字架につかなければならない」と弟子たちに打ち明けると、ペトロはイエスを脇に連れて行き、「主よ、とんでもないことです。そんなことをしたら全てが終わりです」といさめました。するとイエスは、「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔する者、神のことを思わず、人間のことを思っている。わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従って来なさい」と命じます。十字架を負い、道を行くことを心に決め、決断を迫っています。
イエスを誘惑する悪魔は、「神の子であるから、何でもできる。これらの石をパンに変え、人々に配れば、あなたは崇められる。」と誘惑します。また、世のすべての繁栄と権力を見せて、『もし、ひれ伏して、わたしを拝むなら、これらをみな与えよう。そうすれば誰にも支配されることなく、王のように絶対者になることができる」と誘惑します。「十字架の道を捨て、王のように、世の栄光に満ちた道を選らびなさい。」と誘惑します。言い換えれば、何が、誰が人生の主権者になるかという内的な、霊的な戦いです。
イエスは十字架の死を前に、所謂、悪魔と戦われる前に、祈ります。「この杯、十字架の苦難と死)を取り除いてください。しかし、わたしの願いだはなく、御心が適うことが行われますように」と祈っています。激しい内的、霊的戦いの末、主権を神に譲っています。そのために、苦しみもだえ、汗が血のしたたるように地面に落としながら戦ったと言います。自分の存在が、自分のためにではなく、神のためにあるという信仰的真理を明かしています。自分の存在を自分のためにではなく、神のために献げていく。そこに真の命、救い、希望があるというのです。神は、その真理を明らかにするために、イエスを荒れ野に導き、悪魔との戦いを受けさせたのです。
わたしたちにも、いろいろな誘惑、試練、苦難。不条理なことが起ります。それらは神の試練、試み、苦難と信仰的解釈します。それはイエスの受けた勝利に与るために、欠かせないことです。ヘブライ12:6に、「主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、むち打たれるからである。」とあります。ビクター・フランルは「それでも人生に、イエスという」と言っています。苦しみ、悩み、苦難、試練に出会う人生であっても、神の目的と意味があると信じていきたいと思います。
;3,4節に「誘惑する者が来て、イエスに言った。『神の子ならこれらの石がパンになるように命じたらどうが。』「イエスはお答えになった。『「人はパンだけで生きるのではなく、神の一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」とあります。8節以下に「悪魔はイエスを非常に高い山に連れていき、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、もし、ひれ伏して拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。するとイエスは言われた。退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」とあります。悪霊に打ち克つ術は、だれにも与えられています。人間的な資格や条件はありません。神を信じ、受け入れれば与えられます。ヨハネの手紙Ⅰ5:3ー5に「神を愛するとは、神の掟を守ることです。神の掟は難しいものではありません。神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。誰が世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。」とあります。この御言葉を信じて、従っていきましょう。