2026年2月22日 「五つパンと二匹の魚を愛するイエス」 ヨハネ6:1-14

与えられたテキストはヨハネ福音書6;1-14で、「パンの奇跡」と言われるところです。四福音書のいずれにもあります。それは、このテキストが重要な信仰的意味を持っている証拠です。聖餐の根拠であり、聖餐信仰の基盤であり、初代教会の信仰の原点であります。初代教会は、長い間、厳しい迫害にさらされていました。その迫害の嵐の中で信仰を守り通す力になりました。五つのパンと二匹の魚の奇跡を思い起こし、勇気づけられ、慰められました。この御言葉は、聖書が命の言葉であると言われる所以です。

:11に、「イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じように感謝して、人々に分け与えられた。そうすると、皆が満腹し、そして、残ったパンの屑を集めると、十二の籠に一杯になった」とあります。その基は、少年が持ってきたお弁当です。五つの粗末な小さいパンとニ匹の小さな干し魚です。それに対照的に、弟子たちの前に立ちはだかっているのは男だけの五千人の群衆です。弟子のアンデレが「五つのパンと二匹の魚」を見て、「こんな大勢の人では、何の役にも立ちません」と言っているように、弟子たちは皆、「どうにもならない、駄目だ」と思っていました。他の福音書では、イエスが「弟子たちに『あなたがたの手でパンを与えなさい』と命じられた。」。弟子たちは、余りにも現実離れしていると、「腹を立てた」と記しています。しかし、イエスは、五つのパンと魚二匹に感謝を捧げたと言うのです。

「感謝の祈りを唱えた」とありますが、元々は、「満ちる」と「感謝、愛、赦し」という意味です。イエスは、愛、赦しに満たされた、と言うのです。つまり、イエスが何に目を止めていたかです。イエスは「パンが幾つあるか、魚が何匹あるか」という、数・量に目を止めません。もちろん、数や量がどうでも良い、関係がないと言うのではありません。しかし、イエスが眼差しを注いでいるのは、数や量ではなく、神の恵みと赦しです。僅かなものでも、豊かなものに変える神の力に目を注いでいるのです。神は僅かなパンで、大勢の人を養うことが既に旧約聖書の中に記されていたのです。列王記下4:43に、神が大麦のパン20個で大勢の人の空腹を満たしたという出来事が記されています。召使がエリシャに「パン20個で百人を食べさせよ」と言いうのですかと呟いたと言います。「どうしたら、百人もの人々に分け与えることができるか」と呟くと、エリシャは、「主は『人々に与えて食べさせなさい。彼らは食べきれずに残す』と命じる」と。召使がパンを配ると、主の言葉の通り、パンを食べきれずに残した」とあります。パンの奇跡は、主イエスの前に、既に、神は起こしているのです。イエスはそのことを信じていました。しかし、弟子たちは、信じることができなかったのです。イエスは、神に目を注いでいた。神の力を信じていたのです。

ヨハネは、「信じる・ピスチュオー・believe」という動詞を92回も使っています。「信仰・ピステス」という名詞ではなく、動詞を意識的使っています。この6章の終りに、「多くの弟子たちはイエスから離れ去っていき、イエスと行動を共にしなくなった。」とあります。12弟子も動揺して離れようとしていた。イエスは、ペトロに「あなたがたも去ろうとするのか」と問いかけています。ペトロは「わたしたちは、あなたが神の聖者であることを信じています」と言います。この「信じます」、「ピスチュオー・believe、信頼する、委ねる、委託する」です。文脈の中で、この「パンの奇跡」を理解すると、「パンの奇跡」は、神を信じること、神に全てを委ねることを本質としています。イエスは、「人間にはできないが、神にはできる。神は何でもできる」と言っています。パウロも「神は、死者に命を与え、存在していないものを呼び出して、存在させる神であだ」と言っています(ローマ4:17)。困難なテーマですが、イエス、パウロの言葉を信じる、委ねていくのが信仰の道です。

列王記上17:1以下に、「神は、アハブ王の迫害を恐れ、ヨルダン川の東に逃れたエリヤに、パンと肉を烏に運ばせて、養われた」という出来事が記されています。「パンと烏」は、僅かなもの、つまらないものの象徴です。神は、「小さいもの、僅かなもの、無駄と見えるもの」を用いる神でした。しかし、当時のイスラエルの心を支配していたのはバアルの神でした。バアルは、大きいもの尊重し、小さい者を軽んじる、多数を良いことし、少数をなおざりにしました。強く、大きく、有力なものとならなければと教えました。イエスの神とは根本的に違います。イエスの神は僅かなものを愛し、尊重し、小さいものを用いる。僅かなもの、小さい者を愛します。ローマ8:28に、「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」とあります。イエスは、万事を益としたもう神を信じていました。それ故に、どんなに小さいことでも、厄介なことでも、無駄に思われることでも感謝して受愛し受け入れたのです。そのイエスの信仰、希望、慰めを伝えようとしているのです。

:6、主イエスがこれらの業を為されたのは、「フィリポを試みるためであった」とあります。この「試みる・ペイラゾウ」といいまして、「神が人の信仰を試練する」という意味です。同じ言葉は、ローマ5:4の「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生み出す」の「練達」です。コリントⅠ10:13の「神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださる」の「試練」です。元々は「品格、人格」という意味です。「品格」を生み出すため、人格を形成する、希望を生み出すための、意図と目的をもった試みです。イエスがパンの奇跡を行った目的は、弟子たちの信仰をテストし、真の希望を与えようとされたというのです。

「五つのパンとニ匹の魚」は、わたしたちの僅かな持ち物、小さな信仰を象徴しています。しかし、イエスは、その小さい、僅かなものを用い、豊かにすると慰め、励まし希望を与えてくれます。小ささ、僅かさを嘆くのではなく、主に委ねて、託して生きることを求めておられます。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(16:33)。