与えられたテキストはマルコ1:12-13、「誘惑を受ける」です。:12に、『それから“霊”はイエスを荒れ野に送り出した』とあります。イエスが福音宣教に出る前に、荒れ野で試練を受けたことを述べています。この「送り出す」は口語訳は「追いやられた」と。マタイ福音書では「導かれて」となっています。この言葉から、イエスの荒れ野への道は、イエス自身が選んだのではない。神のみ旨,意思によってなされたと言うのです。つまり、荒れ野への道は神の必然の道、主イエスが通過しなければならない道である。その意味では、わたしたちが、その生涯を終えるまでに、また、救われるために、通過しなければならない過程であると言うのです。
この「荒れ野」は、本来の意味は「捨てる」という意味です。つまり、人が捨てた場所、人から捨てられて、今は住む人もいないところを意味します。主イエスが伝道を始める前に、導かれたところは、人が沢山いて、イエスが歓迎され、イエスが語る言葉が喜んで聞かれるところではありません。逆に人が捨てられ、人のいないところです。そこに主イエスは福音宣教に導かれたと言うのです。
使徒言行録8章には、フィリポがエチオピア人に伝道した時のことが記録されています。;26に「さて、主の天使は、フィリポに、『ここをたって南に向かい、エルサレムからガザへ下る道に行け』と言った。」とあります。この「ガザへの道」は、「寂しい道」という意味です「そこは寂しい道である」と説明してあります。口語訳は「今は荒れていた」と訳されています。この「荒れ野」と同じ言葉です。フィリポは、「人から捨てられた場所、ガザへ行け」と命じられたのです。そのガザ、今は荒れているところで、エチオピアの高官と出会います。彼はエルサレムに上る途中で、旧約のイザヤ書を読んで、その意味が理解できず、フィリポに尋ねた。そのことから始まって、エチオピア人が洗礼に導かれる。ガザは荒れ野、人に捨てられた、誰も行きたくない場所です。しかし、そこが、エチオピア伝道の契機になっているのです。
荒れ野は、モーセに導かれたイスラエルの民がエジプトを脱出して、40年間も彷徨したところです。食べる物も呑む水もなく、飢えと渇きに苦しめられました。「神はわたしたちを苦しめ、殺そうとしている。エジプトに墓がないから荒れ野に導いたのか。この苦しみには耐えられない、エジプトで食べた肉が忘れられない.」と呟きました。しかし、その荒れ野の旅が無ければ、「マナ」の神の恵みを、真の救いと恵みを知ることはできませんでした。わたしたちが、今遭遇している苦悩や苦難は荒れ野です。しかし、その荒れ野の中で主が共にいてくださることを確認する恵みの時、カイロスです。「無から有を生み出す神」と言われるように、荒れ野から、福音が始まるのです。
主イエスは荒れ野に導かれて、そこで「誘惑」を受けました。その「誘惑」ですが、他の福音書では、誘惑の内容、「石をパンに変えてみなさい」「この世の栄光と名誉の全てを与えるから、サタンを言うなりになれ」「神殿の屋上に立たせ、ここから飛び降りて、あなたが神の子である証拠を示しなさい」を記しています。しかし、マルコ福音書はその誘惑の詳細を記していません。ただ、主が荒れ野でサタンの誘惑にお会いになったという事実だけを記しています。そこにはマルコ福音書の信仰があると思います。
この「誘惑」は、ギリシャ語で「ペイラゾー」と言います。この言葉はいろいろな意味があります。「神が人の信仰を試練する、試みる」「試験する」には、積極的な意味と「悪意をもって試みる、罪に誘惑する」など消極的な意味があります。新共同訳は「サタンにとって」という言葉がありますから、「誘惑」と訳されたと思います。口語訳は、「試みる」です。悪の誘惑というよりも、「神が人の信仰を試練する」と意味の方を採用し、試練、練達と考えられと思います。
神は、確かに厳しい試練に遭わせますが、それはその人を苦しめるためでもないし、滅ぼすための試練ではありません。救うためという明確な目的を持った試練です。試練は救いに至る一つの過程です。ヘブライ書の5:8に「キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみ(試練)によって従順(信仰)を学ばれた、永遠の救いの源となられるための苦難だった。」とあります。試練は、信仰を学ぶための試練、神の導きに基づいた試練であります。その証拠として、「試練の間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた」ということを挙げています。「野の獣」と言えば、恐ろしい存在です。人の命を奪い、脅威と不安を与えます。その野獣と一緒にいた。天使たちが仕えていた。イザヤは、「狼が子羊と共に宿り、豹は子ヤギと共に伏し、子牛は若ジシと共に育ち、獅子も牛も等しく干草を食べ。乳飲子は毒蛇の穴に戯れ、幼子は蝮の巣に手をいれる」と記しています。何事が起こっても、壊れたり、失ったり、色褪せることのない、終末論的な救い、平安です。
詩人の島崎光正さんは二分脊椎(せきつい)症のために、重度の身体的障害を負った生涯を送られました。島崎さんは、ある詩の中で、「自分はこの病気のお陰で神様の恵みが分かった。病気していなかったならば、どんな荒んだ生活をしていたか、分からない。主イエスが、荒れ野に導かれ、試練に遭われ、それに耐え、勝利された信仰に支えられた」、と述べています。「荒れ野よ、荒れ地よ、喜び踊れ、砂漠よ、喜び、花を咲かせよ、野ばらの花を一面に咲かせよ。花を咲かせ、大いに喜んで、声をあげよ」と(イザヤ35:1)。どんな荒れ野でも、花を咲かせることができる。そういう信仰と希望を示して下さるために、主イエスは荒れ野に導かれました。この御言葉に支えられ、天使が仕えてくださることを信じて、荒れ野に導かれましょう。