2026年4月12日「見ないで信じる信仰」 ヨハネ福音書20:24-29

  • 投稿カテゴリー:全て

与えられたテキストはヨハネ福音書20;24-29の主イエスの弟子のトマスの物語です。トマスは、主イエスが復活されて、弟子たちに現れた時に、そこにいませんでした。他の弟子たちは主イエスの復活を信じることができたのに、トマスは信じることができませんでした。トマスは自分だけが取り残されたという疎外感を抱いたようです。それから八日目のことです、弟子たちはローマ当局の追及を恐れて、べタ二アのある家に隠れていました。そこに主イエスが現れました。それはトマスのために現れたと言えます。

或る日、ベタニアのトマスやマルタと親しいラザロは重い病気に陥りました。マルタとマリアの姉妹は、イエスのところに人をやって、『主よ、あなたが愛しておられる者が病気なのです』と言わせた」とあります。主イエスに来て、欲しいと使いを出したというのです。それに応えて、主イエスがベタニアに行くと言われました。しかし、弟子たちは、「あなたを石で殺そうとしたのに、そこに行かれるのですか」と、ベタニアに行きを止めました。しかし、主イエスは「彼のところに行こう」とはっきり言いました。20;15,16に、「すると、ディディモと呼ばれるトマスが、仲間の弟子たちに、『わたしたちも行って、一緒に死のうではないか』と言った」とあります。トマスが信仰深い、誠実な、一途な心の持ち主であることを表しています。

主イエスが十字架の付けられる直前に、弟子たちと食事をしました。所謂、「最後の晩餐」です。その時に主イエスは、14;1節「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしを信じなさい。わたしがどこに行くか。その道をあなたがたは知っている」と言いました。すると、トマスは、「主よ、どこに行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか」と尋ねます。他の弟子たちは知らないと言うのは、恥ずかしいと思い、黙っていました。しかし、トマスは、「わたしは分からない。知るのは何をした良いのか」と尋ねました。トマスは誠実で、物事を理論的に考える人であることが分ります。主イエスは、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことはできない」と言いました。この主イエスの言葉は、その後の教会の中で、多くの人々を生かす言葉になり、命の言葉になりました。この命の言葉を主イエスから引き出したのはトマスです。主イエスの言葉を聞きたいという篤い思いがあったトマスです。

そのトマスが、主イエスが復活のとき、顕現のときに居ませんでした。復活した主イエスとの出会いの喜びを経験できなかったトマスに、その喜びの経験を伝えたと思い、一生懸命に語りました。どんなに他の弟子たちが熱心に語っても、トマスは信じることがようとはしません。トマスの心は頑なになっていました。「あの方の手の釘跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と言います。

それから八日の後、弟子たちがいつもの隠れ家にいた時に、主イエスが来て、彼らの真ん中に立たれました。そして、トマスに「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばして、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と言われました。主イエスが、自分の方から、トマスより身を低くして、トマスが信じることができる道を開いてくださっているのです。トマスの疑い深さを責めたり、軽蔑したり、叱責したりしません。トマスを受け入れています。あなたの信仰の薄い心を、信仰に満ちた心に変えてあげます、と言われるのです。

その時、トマスは、主イエスの復活を信じました。トマスは、「わたしの主よ、わたしの神」と告白しています。この「主キュリオス」は、ローマの皇帝に使われた称号です。その主キュリオスという呼び名を、ローマの皇帝ではなく、復活された主イエスに当て、主イエスこそ、死に打ち勝つところのまことの「主キュリオス」である、と言うのです。「わが神」は、「ヤハウェ」の神のことです。わたしはあなたを信じ、あなたに従います。わたしはあなたを否定したりしません。わたしは残りの生涯をあなたのために献げますと告白します。すると、主イエスは、20;29「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」とトマスに言われた。他の弟子たちは、主イエスの顕現に接して、見て、信じることができました。それはそれで幸いなことだと思います。しかし、弟子たちの以後の者は、主イエスを見たくても見ることはできません。それでは信じることができなかったかと言えば、決してそうではありません。教会は、使徒たち証言を聞いて信じました。教会は、使徒たちの証言、言葉を聞くことによって生まれました。パウロはローマ10:17で「実に、信仰は聞くことによって始まるのです」と言っています。り、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」と言います。わたしたちの信仰は聞くことです。聞いて信じて、従うことです。ペトロは、ペトロⅠ1;8で、「あなたがたは、キリストを見たことがなくても、聞いて信じる者の幸いを述べています。「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ち溢れています。」と言っています。キリストを見た事がないのに、愛しています、信じています。その信仰を讃えています。そのような聞くことによって信仰に至る道を、トマスは開いてくれたのです。

このトマスと主イエスの出会いの場面を、彫刻家のバルラハは「再会」という作品で描いています。復活された主イエスがトマスを抱きかかえている彫刻です。バルラハは、苦難と艱難の人生を送りました。ヒットラーの悪政と激しい戦いに中で作品を創造しました。バルラハの作品の多くは、ヒットラーによって犯罪的な作品と決め付けられ、処分されました。この再会という彫刻作品があります。ヒットラーの迫害の中の作品と言われています。バルラハはトマスと思われる男性とイエス・キリストを描き、トマスを随分と年取った、戦いに疲れ切った男性に描いています。恐らく、バルラハ自身を、そこに重ねているのではないでしょうか。主イエスの支えが無ければ、くずれ折れてしまいます。それでも、「ヒトラーがわたしの神ではない。わたしの主人ではない。わたしの主人は主イエスを他にしてはない」と言っているようです。この「再会」から、母親の胸に抱かれてすやすや眠っている、安心しきった子どもを連想します。全存母親に明け渡し、安心し切った子どもの姿です。トマスも、パルラハもそうではないでしょうか。信頼できる主イエスを見出し、主イエスに人生の全てを委ねている姿です。信仰の友がガンに侵され、余命いくばくもないと告知されました。「わたしには、どれ位の時間が残されているのか分かりません。しかし、すべてを主イエスに委ねる決心をしました」と書き残していました。彼には、妻と、三人の子どもたちと母親が残されていました。後ろ髪を引かれる思いだったそうです。しかし、「主イエスに、お任せします」と告白し、洗礼を受けました。このトマスから、バルラハの「再会」から、主イエスに、全存在を委ねきる幸いを学びました。見ないで信じる者は幸いだと、わたしたちを祝福していてくださる神に感謝を献げましょう。