与えられたテキストはマルコ16;1-8で、主イエスと行動を共にしてきたマリア、マルタら三人の女性が、日曜日の朝早く、イエスの亡骸が納められている墓に向かいました。金曜日の夕方から安息日であったので、大急ぎで、何も準備することもできず、イエスの亡骸を貰い受け、墓に納めました。安息日の明ける日曜日の朝早く、イエスの亡骸に香油を塗って、丁重に納めるために墓に急ぎました。しかし、彼女たちには心配事がありました。「だれが墓の入り口に置かれている。あの石を転がしてくれるでしょうかと話し合っていた」とあります。「話し合っていた」は、「ずっと話し合った」という意味で、話し合った事実が重要であることを意味します。「墓の入り口を塞いでいた非常に大きな石」は、実際の「大きな石」を表します。しかし、同時に一つの象徴で、人生の行く手を阻む障害、試練、困難なことを意味します。また、わたしたちの人生には、自分の力ではどうにもならないこと、不条理なことがあります。その不条理な、理不尽なことを意味します。
出エジプト記、ヨシュア記によれば、エジプト軍に奴隷として拘束されていたイスラエルの民がエジプトを脱出しました。それに気付いたエジプト軍は捕らえようと迫ってきました。行き手には、彼らの行く手を阻む大きな海が広がり、どうすることも出来ません。その行く手を阻む海は、「非常に大きな石」を意味します。主は、行く手を阻む海を見て、絶望するモーセに、ヨシュアに命じて、「あなたがたは心を弱くしてはならない。うろたえてはならない。おののいてはならない。あなたがたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる。」と言いました。また、イスラエルの民が神の約束の地を目前にしながら、雪どけ水が激しく流れるヨルダン川が、往く手を阻んでいます。それは「非常に大きな石」を意味します。わたしたちの人生には、行く手を阻む多くの「非常に大きな石」があります。一つの石を取り除いても、また、大きな石が目前に見えてきます。たとえ多くの問題を乗り越えても、最後には罪と死という「非常に大きな石」があります。罪と死は乗り越えなければならない最後で、最大の石です。主イエスの復活は、その非常に大きな石が取り除けられていたというのです。その終末的事実を伝えているのではないかと思います
:3,4に、「彼女たちは、『だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか』と話し合っていた。ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常におおきかったのである。」とあります。この「目を上げて見る」は、単に上を見上げると言うのではなく、詩編121の「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ、わたしの助けは、天地を造られた主のもとから来る」の「目を上げて」と同じで、助け主を見上げることを意味します。「既にわきへ転がしてあった」の「転がしてあった」は、受動態で、「転がされて」です。「神の御業」を暗示しています。
主イエスの復活にも該当すると思います。「甦った」のではなく、「甦らされた、復活させられた」と受動態で、「神によって甦らされた」となり、「神の御業」を強調します。神は人間の限界と行き詰まりを切り開くという仕方で、わたしたちに関わります。あの海は二つに割れました。荒れ野で飢餓のために滅びようとしたときには、マナが与えられ、養われました。アブラハムの子イサクを犠牲に捧げようとしたときには、一匹の雄羊が角を近くの木の茂み掛けて、動けなくなっていました。それを捕らえ、イサクの代わりに犠牲に献げました。その場所は「ヤーウェ・イルエ、主は備えてくださる」と名付けられています。これらの出来事は偶然のように見えますが、偶然ではなく、神の導きがあったと信じたのです。パウロは「神はあなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と同時に逃れる道をも備えてくださる」と言っています。復活は、神の力によって、非常な大きな石」が転がされる出来事です。
;7に、「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』」と。」あります。「ペトロに告げなさい」です。ペトロは、三度もイエスを知らないと裏切りました。イエスが捕えられた時、イエスを見捨てて逃げてしまいました。その意味では取り返しのつかないことをしました。ペトロは、主イエスが自分たちの罪・責任を全部背負って、十字架に死に行く姿を見て、自責の念に駆られました。主イエスの十字架を見て、どうすることもできない自分に絶望しました。しかし、主イエスは、そのペトロを指さしました。「赦す、生きよ」と言うのです。自分は駄目な人間だ、諦めと虚無に落ち込んだペトロを、もう一度、復活の朝、呼んでくださるのです。イエスを捨てて、他の人や物を拠りどころとしてしまうような者を呼んでくださる。イザヤが、「恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしの者。わたしはあなたの名を呼ぶ。わたしの目にはあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛し、あなたの身代わりとして人をあたえる」というイザヤ預言の成就として復活されました。イエスの復活は、「恐れるな。生きよ」という神のメッセージです。
大江健三郎の「自分の木の下で」という小説があります。「取り返しのつかないことをしたと苦しみ、恐れる人」を書いています。彼は、少年の時に、突然父親を失います。母親は、父を喪った悲しみに打ちひしがれて、遺体のそばで、怒りながら、「取り返しがつかない。取り返しがつかない」と何度も繰り返しています。彼は、「取り返しがつかない」と嘆き悲しむ母親を廊下に立って見ていたが、恐ろしくなって急いで自分の部屋に行き、布団の中にもぐり込んでしまいます。それ以後、彼は、この「取り返しがつかない」と泣き叫ぶ母親の姿がトラウマになり、「取り返しがつかない」という言葉を聞くのを何よりも恐れました。何回も取り返しがつかないという思いに打ちのめされるのでした。そして、何とかして、その「取り返しがつかない」という思いをひっくり返していかなければ、生きて行く事ができないというドラマです。ペトロが主イエスを裏切ってしまい、主イエスを十字架につけてしまった。ペトロがどんなに悔いても、悔やみきれない、決して取り消すことはできない罪を犯しました。決してひっくり返すことができないことを犯しました。しかし、神はひっくり返されまました。復活は、その事実を伝えています。マリアは、「神にはできないことは何一つない」(ルカ1:37)と。エレミヤは、「主なる神よ、あなたは大いなる力を振るい、腕を伸ばして天と地を造られました。あなたの御力が及ばない事は何一つありません」(エレミヤ32:17)と。マルコは、「人間にはできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ」(マルコ10:27)と。無から有を生み出します。マイナスをプラスに変えることができます。死から命を生み出します。それが主イエスの復活の出来事です。主イエスの復活に現された神の力を信じて、永遠の命、希望の恵みを受けたいと思います。