2019年4月14日ルカ福音書23章32-43節 「十字架の贖い」

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 今日は棕櫚の主日で、今日から受難週です。イエスの十字架への道行きを想起します。イエスの十字架の記事は四つの福音書それぞれに記されていますが、読み比べて見ますとそれぞれ違いがあります。ルカ福音書は十字架の事実だけを簡潔に記しています。例えば、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」というイエスの十字架上の言葉はありません。イエスがひどく悲しみ、絶望の淵に立ったという感傷的な表現を使わず、淡々と十字架の事実だけを伝えようとしています。ルカ福音書時代の教会は迫害に遭遇し、厳しい迫害を耐え忍ばなければなりませんでした。その忍耐は十字架のイエスを見上げていることから生まれたというのです。教会は貧しい人々の共同体でしたが、貧しいが故に、持ち物を分け合い助け合う経験をしました。その分け合いの精神も、イエスの十字架を見上げることによって生まれたというのです。それだけではありません。教会の中にはいろいろな人がいました。その違いを越えて一つになれたのは、イエスの十字架を見上げたからだというのです。彼らはなぜ、そんなに忍耐するのかと尋ねられると、主が十字架について死んでくださったからですと答えました。なぜ、ここに教会があるのか、と尋ねると、主が十字架について死んでくださったからですと答えました。なぜ、そんなに苦労して福音を語るのか、主が十字架について死んでくださったからですと答えました。全ての事柄の根底にイエスの十字架があるというのです。
水野源三さんに「何がそんなに嬉しいの、そよ風が甘い香りを運んでくるから、いいえ違います。神様に愛されているから。何がそんなに嬉しいの、楽しかった過ぎ去った日を思い出すから、いいえ違います。神様に愛されているから」という詩があります。水野源三さんは重度の身体的障碍を負っておられるのに、不思議に思えるほど、明るく積極的に生きておられました。水野さんが明るく生きられたのはイエスの十字架の信仰に生かされたからです。イエスの十字架は水野源三さんの存在の原点と言えます。
フィリピの信徒への手紙4章12節に「わたしは自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしはすべてが可能です」とあります。「お陰」とは、「よって、助け」という意味です。言い換えれば、「イエスの助けによってわたしはすべてが可能です」となります。パウロの生きる根拠、目的、生き甲斐はイエスの十字架にあるというのです。
39節には「十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。『お前はメシアではないか。自分自身とわれわれを救ってみよ』」とあります。35節には、「民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。『他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい』」とあります。36節には「兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、言った。『お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ』」とあります。民衆も議員も、兵士も皆、イエスに向って「自分を救ってみよ。人を救う事などできるはずがない」とあざけり、罵っています。しかし、彼らの罵りは、自分自身への罵りであり、自分には救いがない焦り、苛立ちです。つまり、彼らの内側には救いがない、絶望しているという告白です。パウロはパリサイ派として最高の学歴を持ち、懸命に精進し、社会的な地位も名誉も得ました。しかし内側には霊的な救いがないと告白しています。ローマの信徒への手紙7章24節に「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。わたしは自分の望む善は行なわず、望まない悪を行っている。わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょか」とあります。パウロは自分の内側には、自分を支える土台、根源がない、自分の力では真の救いを得ることができないと告白しています。
十字架にかけられた犯罪人の一人は「あなたはキリストではないか。それなら、自分を救い、またわれわれも救ってみよ」とイエスをののしりました。彼は人生の総決算に立たされ、自分の中に何も無い、暗闇と孤独だけであることに気づきました。自分の中に信じるものが何もない、究極的に委ねるものを持っていないというのです。
もう一人の犯罪人は「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」と言いました(口語訳)。「御国の権威」とは「人間を究極的に生かす究極的な肯定」を意味します。彼は絶対的な肯定を求めているのです。43節「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」とあります。「楽園」は「パラダイス」で、元来は神が囲いを造って、その囲いの中いる人間を完全に守ってくれることを意味します。言い換えれば、「あなたは今日、神の囲いの中にわたしと一緒にいる」(be with me in Paradise)となります。彼が何の罪を犯したか分りませんが、十字架につけられています。しかし、彼を取り囲んでいるものは、空虚、暗闇ではなく、神の肯定というのです。誰がなんと言おうと、神はあなたを「よし」と肯定し、受け入れてくださるというのです。詩編62編6節に「わたしに魂よ、沈黙して、ただ主に向かえ。神のみ、わたしは希望をおいている」とあります。究極的な希望は十字架のイエスにあるというのです。あなたがどこに行こうとどこに置かれよと、十字架のイエスが共にいてくださいます。イエスの十字架の贖いを信じて、イエスに従っていきたいと思います。