与えられたテキストは「ムナのたとえ」です。ある立派な家柄の人が王の位を受けるために、遠い国へ旅立つことになりました。そこで10人の僕を呼んで、10ムナを渡し、「わたしが帰って来るまで、これで商売をしなさい」と旅立ちました。暫くしてから、彼が王の位を受け、帰って来ました。その時、ムナを渡しておいた僕たちを呼んで、どれだけ利益を上げたかを決算をしました。一人の僕は「ご主人様、あなたの1ムナで10ムナをもうけました」と言いました。主人は「良い忠実な僕よ、よくやった。お前はごく小さい事に忠実であったから、10の町の支配権を授けよう」と言いました。二番目の僕は「ご主人様、あなたの1ムナで5ムナを稼ぎました」と言いました。主人は「お前は5つの町を治めよ」と言いました。それからもう一人の僕が来て、「ご主人様、これがあなたの1ムナです。布に包んでしまっておきました。あなたは預けないものも取り立て、蒔かなかいものも刈り取られる厳しい、恐ろしい方であることを知っています。」と言いました。すると主人は言った。「悪い僕だ。その言葉のゆえにお前を裁こう。わたしが預けなかったものも取り立て、蒔かなかったものも刈り取る厳しい人間だと知っていたのか。ではなぜ、わたしの金を銀行に預けなかったのか。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きでそれを受け取れたのに。」と。これが「ムナのたとえ」のあらすじです。
11節には「人々がこれらのことを聞き入っているとき、イエスは更に一つのたとえを話された。エルサレム近づいておられ、それに、人々が神の国がすぐにも現れるものと思っていたからである」とあり、「ムナのたとえ」を語られた理由が述べられています。人々がエルサレム(十字架)に近づいて行くイエスの姿を見て、神の国(終末)がすぐにも現れると思っていたからであるというのです。この「思っていた」は「思い込んでいた、幻想を抱いた」という意味です。つまり、人々が神の国はすぐにも現れると思い込んでいたために、「ムナのたとえ」を語られたと言うのです。テサロニケの信徒への手紙に記されているように、彼らは終末が直ぐ来る。明日も分からないのだから一生懸命生きても仕方がない。飲み食いし、思い切り楽しんで死のうと。現実生活を逃避し刹那的な生活に陥っていました。イエスは絶望的な生活に陥っていた人々に向けて、この「ムナのたとえ」を語られたというのです。
彼は王の位を受けて帰るために、遠い国へ旅立ったと言います。いつ帰ってくるのか分かりませんが、必ず帰って来て、預けたムナの決算をするというのです。つまり、僕たちは限られた時間の中で生きるというのです。テサロニケの信徒への手紙Ⅰ5章には、主の日は盗人が誰も気付かない真夜中、突然襲うように、誰も知らないうちにやって来る。だから身を慎んで、目を醒まして生きるようにという教えがあります。「ムナのたとえ」でも、限られた時間の中を懸命に生きることを求めているというのです。
三番目の僕は預かった1ムナを布に包んでしまっておき、1ムナのまま差し出しました。主人は「悪い僕だ」と厳しく叱責したというのです。この「悪い」は「罪や咎」ではなく、「臆病な、怠惰な」という意味です。21節には「あなたは、預けないものも取り立て、蒔かないものも刈り取られる厳しい、無慈悲な方なので、恐ろしかったのです」とあります。三番目の僕の根本的な問題は恐れです。「恐れ」は人格を歪め、生きる力を奪ってしまいます。詩編118編5節に「苦難のはざまから主を呼び求めると、主は答えてわたしを解き放たれた」とありますように、誰も「恐れ」から解放されなければなりません。聖書では、度々「恐れるな。恐れることはない」という慰めの言葉が語られています。ルカ福音書12章32節に、「恐れるな。小さな群れよ」と、マタイ福音書10章26節には「体を殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな」と、マタイ福音書14章27節には「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」とあります。イザヤ書7章4節には「落ち着いて、静にしていなさい。恐れることはない。」と、イザヤ書43章10節には「恐れることはない。わたしはあなたと共にいる神。たじろぐな、わたしはあなたの神」とあります。イエスが与えよとする救いは恐れからの解放です。この「ムナのたとえ」も、人々を恐れから解き放つために語られています。
イエスは、マタイ福音書25章では「ムナのたとえ」に平衡記事の「タラントンのたとえ」を語っています。「タラントンのたとえ」は、神から預かっている豊かな賜物・タラントンを最大限に活かさなければならないという教えです。それに対して、この「ムナのたとえ」は、17節に「良い僕だ。よくやった。お前はごく小さな事に忠実だったから、十の町の支配権を授けよう」とありますように、小さいことへの忠実、誠実さの教えです。「良い」と讃えられたのは、大きな儲けや働きではなくて、ごく小さい事への忠実さ、誠実さです。22節には「悪い僕だ。その言葉のゆえにお前を裁こう」と言われています。この「悪い」は「怠惰」という意味で、小さな事への怠惰、不忠実を意味します。本質的な問題は、イエスから託されたごく小さい事に忠実であるか、否かです。ごく小さい事に一心に従うか、否かです。
山本周五郎は「人生で大事なことは、何をなしたか(結果)ではなく、何を為そうとしたか(心)である」と言っています。神は儲けや働き(to do、 to have)に目を留めず、わたしたちの心、忠実さ、誠実さ(to be)に目を留めてくださいます。コリントの信徒への手紙Ⅰ15章58節に「主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです」とあります。イエスはわたしたちのごく小さいことへの忠実さを評価し、報いてくださいます。その事実を信じて御言葉に従っていきたいものです。