アルベルト・シュヴァイツァーというアフリカの医療伝道に尽くされたノーベル平和賞の医師がおりました。牧師で、神学者で、哲学者、オルガニストでもありました。彼は30歳の時、礼拝の中で、サムエルのように、「シュヴァイツァーよ、シュヴァイツァーよ」と神から呼びかけら、「主よ、わたしはここにいます。お語りください」という神体験しました。そして神の言葉に捉えられ、アフリカに行くように命じられ、ガボン共和国のランバレネに伝道と医療活動に向かい、アフリカ人のために生涯を献げました。シュヴァイツァーは若い時から「人間関係の崩壊の時代が来る」と警告していました。「わたしたちの生きている時代は、人の善意というものが、かつてない程失っている。互いの信頼を傷つけるような言葉がみさかいもなく投げつけられている。その根本原因は人間の知恵と科学と技術の粋を集めて作り上げた核兵器にある」と述べていました。詩編20編に「戦車を誇る者もあり、馬を誇る者もあるが、我らは、我らの神、主の御名を唱える」とありますように、人間は真の神に代えて、この世の知恵や科学を頼り信仰している。しかし、その人間の知恵や科学・技術は、真の平和や平安を与えることはできない。むしろ、人間同士の不信を募らせ、世界を不安に陥らせ、隣人や愛を失わせているというのです。シュヴァイツァーの言葉のように、現代世界は自国主義に陥り、対立し、孤立しています。個人的にも人間関係はバラバラにされ、親の虐待で、尊い命を落としいく幼い子どもがいます。一人住まいの高齢者がお金のために殺害されるというかつては考えられない時代が来ました。わたしたちは人間関係の喪失時代の中で、どのように生きていけば良いのかという問題を考えてみたいと思います。
今日のテキストは「善いサマリア人」です。律法学者とイエスの間で「永遠の命と愛」について論争する場面です。律法学者がイエスに「わたしの隣人とは誰のことですか」と尋ねます。すると、イエスは一つの物語を語りました。ある時、強盗に襲われて負傷して倒れている人の側を、祭司、レビ人、そして、サマリア人が通りかかりました。祭司とレビ人は、傷ついた人を見たが、側を通り過ぎて行ってしまいました。しかし、サマリア人は傷ついた人を見て憐れに思い、近寄って介抱し、そして、宿屋に連れて行ったと言うのです。36節にはイエスは「さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」と問うたとあります。29節には「しかし、彼は自分を正当化しようとして、『では、わたしの隣人とはだれですか』と言った」とあります。この律法学者の問いとイエスの問いの違いに注目します。律法学者の「わたしの隣人はだれですか」という問いに答えが与えられたとしても、隣人を愛する愛は生れません。その人が主体的になることはないからです。イエスの「だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」という問いは、主体的に関わっていくことを求めています。イエスは隣人に関わる自己を変革し、新しく変わることを求めています。
イエスは、律法学者の「永遠の命を得るためにはなにをしたよいか」という問に対して、「律法には何と書いてあるか」と尋ね返します。すると、律法学者は「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。また、隣人を自分のように愛しなさいとあります」と答えました。すると、イエスは、「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる」と言っています。そして、この物語の結びの37節でも、「行って、あなたも同じようにしなさい」と言っています。イエスにとって「わたしの隣人とはだれですか」という隣人の概念や考えが問題ではなく、「だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったかと思うか。行って、あなたも同じようにしなさい」とありますように、その人が主体的に隣人になること、隣人に寄り添うことが問題であるというのです。
35節に「そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出して、宿屋の主人に渡した」とあります。デナリオン銀貨二枚は、僅かなものの象徴です。善いサマリア人は僅かデナリオン銀貨二枚を与えました。その意味では、彼の行為は小さな、ささやかな愛のわざです。「行って、あなたも同じ様にしなさい」と言われます。イエスは偉人や聖人になることではなく、隣人になるために、ささやかな小さい愛の業を求めているのです。「隣人になる」ということは、無理を強いられることではありません。為すべきこと、なし得る出来る限りのことを意味します。それぞれ出来ることをすれば良いと言うのです。
マザー・テレサは、誰一人見取る者もなく路上で亡くなっていく人を見守り、心穏やかに死を迎えるようにと「死を待つ家」を作りました。マタイ福音書25章40節に「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」とあります。国籍や人種、信条、宗教を問いません。路上で死に逝く人を「死を待つ家」に連れて来て、「あなたも、この世に望まれて生まれた人である」「あなたは一人ではない。神が共にいて、神の国に招いておられる」という信仰的事実を伝え、寄り添ったと言います。イエスはわたしたちが主体的に隣人になることを求めています。隣人に寄り添うことを求めているのではないでしょうか。
「善いサマリア人」の物語は、わたしたちを解放する物語です。イエスはわたしたちが自分の殻を打ち破って、主体的に隣人になる道を与えて下さいます。小さい者の隣人になる恵みを語っています。「行って、あなたもおなじようにしなさい」というイエスの言葉に背を押されて、隣人になる、隣人に寄り添う道を前進していきたいと思います。