2019年2月24日 ルカ福音書18章35-43節 「ただ一心に」

  • 投稿カテゴリー:全て / ルカ書

 与えられたテキストはルカ福音書18章35-43節です。イエスが、十字架を目指してエルサレム向かう途中、エリコを通過する時のことです。物乞いをしていた盲人が、イエスが通ることを知り、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫びました。弟子たちが叱りつけ黙らせようとしましたが、彼はますます「ダビデの子、イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫び続けました。イエスは立ち止まって、盲人をそばに連れて来るように命じ、連れてきた彼に「何をしてほしいか」と尋ねますと、盲人は「主よ、目が見えるようになりたいです」と言いました。イエスは「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った」と言われると、盲人はたちまち見えるようになり、神をほめたたえながら、イエスに従った。これを見た民衆はこぞって神を賛美したといいます。
ルカ福音書18章の編集をみると、1節以下「やもめと裁判官のたとえ」、9節以下に「ファリサイ派の人と徴税人のたとえ」が置かれ、15節以下には「子供の祝福」が、18節以下には、「金持ちの議員」の物語が、31節以下は、「イエス、三度死と復活を予告する」が置かれ、そして、今日の「エリコの近くで盲人をいやす」が編集されています。その編集に今日のテキストのメッセージがあると思います。
 35節に「イエスがエリコに近づかれたとき、ある盲人が道端に座って物乞いをしていた」とあります。「エリコに近づいた」ということは、32節の「人の子は異邦人に引き渡されて、侮辱され、乱暴な仕打ちを受け、唾をかけられる。彼らは人の子を鞭打ってから殺す」という言葉から見ると、イエスの十字架の死が切迫していることを意味します。人は自分の死が迫った時、どのように死と向き合えるか・・・分かりません。イエスは十字架の死が迫っているのに、「わたしを憐れんでください」と叫ぶ物乞いの盲人の叫びに耳を傾け立ち止り、彼に寄り添ったというのです。   
 旧約聖書の出てくるヒゼキヤ王は、預言者イザヤから死の宣告を受けると、壁に向かって、大泣きをし、悲嘆に暮れたと言います。アハズ王は風に揺れる林の木のように、動揺し、自分を失っています。作家の中嶋みちさんは、ガン告知を受け病院から出てきたとき、周りの景色の色彩は消え無色に見えた。自分のことで心が一杯で、人のことは考える余裕は全くなかった、他人のことは考えられなかったと述べています。
40節に「イエスは立ち止まって、盲人をそばに連れて来るように命じられた」とあります。原文には、ギリシャ語で「で」と言いますが、「しかし、ところが」という接続詞があります。イエスは十字架の死が迫っている。ところが、イエスは立ち止まり、物乞いの盲人を癒やされたと言うのです。詩編41編2節「いかに幸いなことでしょう。弱いものに思いやりのある人は。」とあります。イエスは十字架の死に向かっているのに、物乞いの盲人に寄り添い思いやる優しさに満ちた救い主であるというのです。
 39節には「先に行く人々が叱りつけてだまらせようとしたが、ますます『ダビデの子よ、わたしを憐れんでください』と叫び続けた」とあります。この「叫ぶ」は、出エジプト記2章23節の「イスラエルの人々は労働にゆえにうめき、また叫んだ。その叫びは神に届いた。神はその叫びを聞き、イスラエルの人々を顧み、御心に留められた」に出てきます。エジプトの苦役からの解放は彼らの叫びを神が聞かれたことが原点だと言います。また、「叫ぶ」は、ヨナ書2章3節の「苦難の中で、わたしが叫ぶと、主は答えてくださった。陰府の底から、助けを求めると、わたしの声を聞いてくださった」に出てきます。ヨナが大魚の腹の中に呑み込まれ、暗黒の中から叫び声を挙げると神は答えてくれたというのです。「叫ぶ」はギリシャ語では「分からない言葉で叫ぶ」という意味です。詩編86編7節「苦難の襲うときわたしが叫び求めれば、あなたは必ず答えてくださる」とありますように、神は言葉にならない、声にならない叫びを聞いてくださるというのです。
 41節、主イエスは、その盲人に「何をして欲しいのか」と尋ねます。彼は「主よ、目が見えるようになりたいです」と答えます。イエスは「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った」と言いました。この「見る」ですが、ギリシャ語では「肉眼で見る」のではなく、「物事の本質、真理、真実を見る」ことを意味します。言い換えれば、「この世がどんな矛盾に満ち、不条理であっても、その根底には神の支配、神の愛があることを見る」ことを意味します。言い換えれば「信じる」ことです。ヨナは真っ暗闇の中に投げ込まれましたが、神の救い、導きがあることを信じました。ビクタ-・フランクルは、「不条理な人生、それでも人生にyesと言い、肯定し、受け入れる」と言います。イエスは究極的には、真実な神を信じ受け入れていくことを求めているのです。
 42節「あなたの信仰があなたを救った」と言います。この「信仰」は、ギリシャ語では「信頼する」という意味です。イザヤ書30章15節には「静にしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある」とあります。神を「信頼する」ことです。詩編62編6節「わたしの魂よ、沈黙して、ただ神に向かえ、神にのみ、わたしは希望をおいている。神はわたしの岩、わたしの救い、砦の塔。わたしは動揺しない」とあります。わたしたちの人生では様々なことに出会いますが、ただ一心に、主イエスにのみ、希望をおき、主イエスだけを依り頼んで歩んで行きたいと思います。