ビクトール・フランクルは「心理療法の26章」という著書の中で、一人の末期ガンに冒された看護婦のことを記しています。彼女は検査の結果、回復の見込みのない、末期ガンだということが分かりました。彼女は看護婦の仕事を天職と愛し、生き甲斐としていました。病人のために働けないことが一番辛いことで、生きていく気力を失い、絶望しました。
精神科医のフランクルは彼女の心の治療に当たります。「あなたが看護婦として患者のために働くことも大事だが、もっと大事なことがある。看護婦としての仕事はあなたでなくても、他の誰かが代ることができる。しかし、あなたにしかできないことがある。それは、働きたいが働くことができない、にも拘らず絶望しないで生きていくことです。もし、あなたが、今ここで絶望すれば、病気や病弱のために働くことのできない人に生きる意味を失わせ、絶望させます。しかし、あなたが絶望しないで生きるなら、病気と戦っている人々に生きる希望と勇気を与えます。あなたには、あなただけの一回限りのチャンスが与えられているのです。神はあなたをそのように用いようとしているのです」と話しました。彼女は、フランクルの言葉を受け入れ信じて、末期がんの中で絶望することなく生き、その生涯をまっとうするのでした。
このエピソードは、人は目に見えるものだけでは生きていくことができない事実を示しているのではないでしょうか。彼女は病気になるまでは、仕事、功績など、この世の目に見えるものを生き甲斐としてきました。しかし、末期ガンという危機に直面させられ、それらは真の命の源になれないことを悟り、永遠の命を求めていきました。
さて、今日のテキストは金持ちの議員が永遠の命を求めてイエスを訪ねるという物語です。彼はユダヤの最高法院の議員で、高い地位と名誉を得、多くの財産も蓄え富み栄えていました。しかし、彼の魂の深いところには、満たされない空虚感があったのではないでしょうか。彼はヨハネ福音書3章のニコデモのように、世を憚って真夜中ではありませんが、そっとイエスを訪ねました。「子供の時から、すべての律法を守ってきました。何をすれば永遠の命を受け継ぐ事ができるでしょうか。」と問うたと言います。イエスは「あなたに欠けているものがまだ一つある。持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に冨を積むことになる。それから、わたしに従ってきなさい」と答えました。しかし、彼は誰でもそうであるように全てを捨て切れませんでした。彼は真面目で、努力家でした。捨てきれない自分の弱さに絶望し、悲しみながらイエスのとこから去って行きました。
弟子たちは悲しみながら立ち去る議員を見て、イエスの言葉に驚き、疑いをもちました。イエスは、17節では「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」と言われましたが、ここでは「財産のある者が神の国に入るのは、何と難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」と言っています。弟子たちはイエスの言葉に一層驚き疑い「それでは誰が救われるのだろうか」と反論しました。すると、イエスは「人間にはできないことも、神にはできる」と言われました。勿論、イエスの言葉は富むことは罪であるとか、富を捨てなければならないという律法、倫理、道徳ではありません。弟子たちに救いと永遠の命を与えようとする福音です。
富は、ギリシャ語で「マモナス」と言い、「頼りがいのあるもの」という意味です。ギリシャ人は目に見えるものしか信じることができず、目に見える富が最も頼りがいがあるという思想です。コリントの信徒への手紙Ⅱ4章18節には「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです」とあります。詩編56編5節には「恐れをいだくとき、神の御言葉を賛美します。神に依り頼めば恐れはありません。肉にすぎないものが、わたしに何をなしえましょう」とあります。イエスは目に見えるものではなく、見えないものに、目に見える富ではなく、目に見えない神を信頼することを求めているのだと思います。
この議員は神に頼ることは弱い者がすることで、自分の力で生きていかなければならないと考え、地位も名誉も自分の力で得たという自負がありました。詩編118編8節に「人間を頼らず、主を避けどころとしよう。君侯に頼らず、主を避けどころとしよう」とあります。また、フィリピの信徒への手紙4章12節「いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です」とあります。イエスはどんなに小さい事でも、自分の力でできると思わないで、神の力によって可能であると考え、今までの在り方、生き方を180度転換させる道を示しています。
テキストの文脈をみると、「子供を祝福する」という物語があって、「金持ちの議員」が続いて、その後に「イエスと弟子たちとの問答」が編集されています。18章16節には「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」とあります。イエスは全財産を捨て、貧しい人に施す律法や道徳・倫理を求めているのではりません。子供たちのように神に依り頼み、全てを神にゆだねる信仰を求めているのです。平衡記事のマルコ福音書10章27節には「人間にはできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ」とあります。イエスは、翻って神を信頼し、全てをゆだねることを求めておられるのです。詩編55編23節に「あなたの重荷を主にゆだねよ。主はあなたを支えてくださる。主に従う者を支え、とこしえに動揺しないように計らってくださる」とあります。主にゆだねて一人一人に定められた道を歩んでいきたいと思います。