2019年2月10日 ルカ福音書18章15-17節 「幼な子のように」

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 与えられたテキストはルカ福音書18章15-17節で、「子供を祝福する」です。この記事はマルコ福音書にも、マタイ福音書にも記されております。三福音書それぞれに記されているということは、多くの人々がこのイエスの言葉に出会い、悔い改められ、新しくされ、希望と慰めを与えられてきた事実を示していると思います。
15節に「イエスに触れていただくために、人々は乳飲み子まで連れて来た。弟子たちは、これを見て叱った」とあります。イエスが今立っている状況は十字架を目指してエルサレムに上っているという緊迫した事態です。弟子たちは、この非常に緊迫しているこの時に、乳飲み子を連れて来るとは何事か、と激しく叱責しているのです。
16節に「しかし、イエスは乳飲み子たちを呼び寄せて言われた」とあります。意訳すると、マルコ福音書10章14節「しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた」とありますように、「イエスは弟子たちに激しく憤って言われた」となります。イエスは乳飲み子を拒もうとする弟子たちを厳しく叱責したのです。弟子たちはイエスの優しい思いを理解できないのです。「乳飲み子」は、ギリシャ語で「ブレフォス」と言い、「人の支えがなくては生きていけない全く無力な存在、無価値な存在」を意味します。イエスは、その無力で、無価値な存在を掛け替えのない存在として認め、受け入れているのです。
 申命記7章6節に「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛ゆえに、・・・・、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出された」とあります。イザヤ書41章9節には「わたしはあなたを選び、決して見捨てない。恐れることはない。わたしはあなたと共にいる神。たじろぐな、わたしはあなたの神。勢いを与えてあなたを助け、わたしの救いの右の手であなたを支える」とあります。イスラエルの民が神に選ばれたのは、イスラエルの民が富み栄え、経済的な力があったからではない。むしろ、世界のどの民よりも貧弱で、小さい民であったからだというのです。イエスの優しい愛の目は弱く貧しい者に注がれていというのです。
 この「乳飲み子」は、口語訳聖書は「イエスにさわっていただくために、人々が幼な子らをみもとに連れてきた」とありますように「幼な子」と翻訳されています。新共同訳は原文に忠実に「乳飲み子」と訳しています。この言葉は文字通り「赤ちゃん」のことです。乳飲み子は全て親の助けを受けなければ生きられない、最も弱い、無力な存在です。その無力な乳飲み子をイエスは受け入れるというのです。最も小さな者を喜んで受け入れる。マタイ福音書25章40節に「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」とあります。イエスの神は最も小さい最も貧弱な者を受け入れ、愛してくれる神です。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。神は一人も滅びないように独り子を犠牲にしてくださいました。
16、17節には「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」とあります。この「子供」は、ギリシャ語で「パイディオン」と言い、「乳飲み子・ブレフォス」とは違います。意味は「受け入れる能力、受容力をもっている子ども」を意味します。公園を散歩していると、子どもが少し離れたところにおられる母親をめがけて走り、胸に抱きつき、母親のふところで安心して、ニコッとする姿を見かけます。母親を信頼しきっている子どもの姿です。子どもと母親の間には無条件の信頼関係があります。神とわたしたちの関係にも、子どもが親を信頼し、身をゆだねるように、神に全面的に信頼し、ゆだねる信仰があるというのです。神は、自分に依り頼もうとする者に向かって、「資格がないから、立派になってから、・・・・」と言われません。神は信頼する者を受け止め、寄り添ってくださいます。詩編56編12節に「神の御言葉を賛美します。神に依り頼めば恐れはありません。人間がわたしに何をなしえましょう」とあります。イエスがわたしたちに与えようとしているのは神への全幅の信頼です。
 ルカ福音書はこの「子供を祝福する」を「ファリサイ派の人と徴税人のたとえ」の直後に編集しています。ファリサイ派の人は「神様、わたしはほかの人たちのように奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でないことを感謝します」と自分の正しさと熱心さを拠りどころとして神の前に立っています。逆に徴税人は「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と胸を打ちながら祈っています。14節に「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」とあります。徴税人は罪を認め告白し救われています。ルカ福音書は、救われた徴税人と子どもを重ねています。詩編37編7節に「沈黙して主に向かい、主を待ち焦がれよ」とあります。子どもが母親の愛を慕い求めるように、ひたすら神を待ち焦がれていきたいものです。詩編118編8節に「人間に頼らず、主を避けどころとしよう。君侯に頼らず、主を避けどころとしよう。主に依り頼めば恐れはありません」とあります。神の愛を信頼することによって、平安が与えられます。神は母親が子どもの在りのままを受け入れるように、この頑なで傲慢な者を受け入れ愛してくださいます。イエスの愛と恵みを信頼し、全てを主にゆだねて前進していきたいと思います。