2018年8月19日 ルカ福音書14章15-24節 「神の招き」

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 与えられたテキストはルカ14章15-24節です。表題は「大宴会のたとえ」です。ある主人が盛大な晩餐会を催そうとして、招待状を出し、当日には、僕を送り、「もう用意ができましたから、おいでください」と丁重に招きました。しかし、招待された人々は皆断ったと言うのです。この「大宴会のたとえ」で、イエスが伝えようとしていることを考えてみます。
 15節に「食事を共にしていた客の一人は、これを聞いてイエスに『神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう』と言った」とあります。原文は、「幸いなるかな」が文頭にあります。意訳すると「幸いなるかな。神の国で食事をする人は」となります。この「幸い」ですが、漢字では「両手に手枷をはめられた姿」を示し、「手枷だけの刑罰で済んだ」ことを意味で、「思いがけない幸せ、めぐりあわせ、幸運」という意味です。ギリシャ語では「マカリオス」と言い、「神からの祝福、神の恵み」を意味します。つまり、「神と共にいる信仰に基づく幸い」です。
ヨハネ黙示録3章20節には、「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。誰でもわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。勝利を得る者を、わたしは自分の座に共に座らせよう。わたしが勝利を得て、わたしの父と共にその玉座に着いたのと同じように。」とあります。「幸い」を、ヨハネ黙示録の文脈で理解すれば、「勝利を得る、苦難や死に打ち勝つ勝利」となります。フィリピの信徒への手紙1章29節には「あなたがたはキリストのために、ただ彼を信じることだけでなく、彼のために苦しむことをも賜わっている」とあります。また、ローマの信徒への手紙5章3節には「艱難をも喜んでいる」とあります。苦難を賜っている、艱難をも喜んでいる。つまり、信仰の勝利です。イエスは、わたしたちを信仰の勝利の世界に招いてくださっていると言うのです。
16節に、「ある人が盛大な宴会を催そうとして、大勢の人を招き、宴会の時刻になったので、僕を送り、招いておいた人々に『もう用意ができたから、おいでください』と言われた。」とあります。この「招く」は、ギリシャ語で、「カレオー」と言い、「呼ぶ、召す]という意味があります。元来は「名前を呼ぶ」です。神が「アブラハムよ。モーセよ。マリアよ。パウロよ。」と、一人一人の名前を呼んで招かれたように、名前を呼んで、一人ひとりを招かれたことを意味します。「もう用意ができましたから、おいでください」は、主の招きであって、命令や義務ではありません。信仰の中心は「主の招き」であると言うのです。イエスは、最後の晩餐で、ひざまついて、弟子たちの足を洗ったように、自らを低くして招いてくださっていると言うのです。礼拝も、聖餐も神が招いてくださっているから成り立つのです。この招きは二回行なわれています。晩餐会の期日を予告して、参加者の都合を尋ね招待状を送っています。当日準備万端を整えて、「もう用意ができましたから、おいでください」と丁重に招いています。ここには、心を尽くして、招いてくださっているイエスの熱い思いが表れています。
 21節に、「すると皆、次々に断った。僕は帰って、このことを主人に報告した。すると、主人は怒って僕に言った」とあります。この「怒り」は、元来腹を立てるというよりも、「心を痛める、悲しむ」という意味です。つまり、怒りの背後には、何をおいても、招きに応答して欲しいというイエスの思いがあります。イエスは、わたしたちが何をおいてもイエスの招きに答えることを期待していると言うのです。
マルコ福音書1章には「弟子たちの召命記事」があります。ペトロが湖で網を打っているのを御覧になって、「わたしについて来なさい。人間を獲る漁師にしよう」と言われました。二人はすぐに網を捨てて従った」とあります。預言者イザヤは、「神が誰を遣わすべきか。誰がわれわれに代わって行くだろうか」と言われると、イザヤは即座に「わたしがここにおります。わたしをお遣わしください」と答えたと言います。イエスは、名前を呼んで、招いておられます。また、イエスの招きに答えることを期待しています。
 ある施設で働いている方が「自分はクリスチャンなのに、人から批判されるのを恐れ、非常に臆病です。わたしの信仰は人を奮い立たせないで、かえって萎縮させているのではないか」と言っていました。「共に生きている施設の人たちの信仰は厳しいことに直面しながら、彼らを立ち上がらせる力を持っている。これをすると失敗するかも知れない、あれをすると批判されるかも知れない、などと悩んで立ち竦んではいません。イエス様がついていてくださるのだから、『よし。やろう。やってみよう』と立ちあがらせる信仰があります」と言っていました。イエスの神は、失敗や批判を恐れ、座り込こんでしまう私たちを、恐れから解放し、溢れるような喜びの中に招き入れてくださいます。24節には「言っておくが、あの招かれた人たちの中で、わたしの食事を味わう者は一人もいない」とあります。文脈から読みますと、「あの招かれた人たちの中で、一人でもよいから、わたしの食事を味わって欲しい」となります。イエスの深い思いやりと優しさを読みとれます。パウロはローマの信徒への手紙8章37節で、「しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある」と言って、主の勝利を讃えています。その勝利の世界に、イエスは「もう用意ができましたから、おいでください」と招いておられます。その主の招きに応えていきたいと思います。