2018年8月12日 イザヤ書53章1-10節 「苦難の意味」

 イザヤ書の前にまず、ヨブ記について見てみます。ヨブ記は天上で行われた神とサタンとの議論で始まります。神がヨブほど義しい信仰を持っている者はいないと言いますと、サタンは、恵まれた中にいるからであって、不幸なことが起これば、信仰を捨てます。すると、神は、「ヨブに限ってそんなことはない。ヨブが信仰を捨てるかどうか、試してみなさい」と言いました。するとサタンはヨブから全財産と10人の子どもを奪い取りました。ヨブは信仰を捨てませんでした。「わたしは裸で生まれ、裸でかしこに帰ろう。主は与え、主は取りたもう。主の御名はほむべきかな」と神を誉め讃えたと言います。サタンは更にヨブを難病で苦しめます。ヨブの苦しむのを見た妻は、「神を呪って死になさい」と言います。ヨブは「われわれは神から幸をうけるのだから、災いをも、うけるべきではないか」と言います。三人の友人が、苦しむヨブを尋ね、「神のなさることは間違いないのだから、あなたは文句を言ってはいけない」、「あなたは気づかないかも知れないが、どこかで罪を犯している」と忠告します。さすがのヨブも、呟き始めます。「どうして苦難を受けなければならないのか、なぜ、神は罪もない者を苦しめるのか?」と呟きます。しかし、ヨブは、信仰は無駄だと言って、神に背を向け、神を疑うことはしません。この苦しみの真の理解者、慰め主がいるはずだ、と言い、究極的な救いを求め続けます。そのヨブ記の問いに答えているのが、今日のテキストだと思います。
 イザヤ書53章はバビロン捕囚中に書かれたと言われます。イスラエルの人々はバビロンに捕らえ移されてから60年経ちました。その間彼らは、「苦しみを知り負ってくれる者」を求め続けました。イザヤ書45章によれば、キュロス王は強力な軍隊を引き連れ、バビロンを倒しました。イスラエルの人々は、キュロス王に捕囚の民を解放し、自由にするメシア・救い主であることを期待しました。しかし、キュロス王は真の解放者・慰め主・メシアではありませんでした。なぜなら、キュロス王は苦しむ者の痛みを理解することはありません。捕囚の民を解放するどころか、自国の利益のために、服従を求めました。期待を裏切られたイスラエルの人々は無力感、絶望感に打ちのめされました。
 その時、預言者イザヤは新しい救い主・メシアが与えられると預言しました。3節、4節に「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し、わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに、わたしたちは思っていた。神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいるのだ、と」とあります。救い主・メシアは威厳も、輝かしい風格も、好ましい容姿もなく、人々から軽蔑され見捨てられ、人の痛みを自分の痛みとし、病人のことをよく知っている方であると言うのです。イザヤの預言する救い主は、多くの人々が考えてきた救い主とは違っていました。イスラエルの人々の待望したメシア・救い主は、キュロス王のように強力な軍事力をもって、バビロンを倒して、救いをもたらす力の救い主でありました。しかし、権力を有した王は、どの王もそうであるように、貧しく小さな存在は切り捨てます。慰め主にはなり得ません。真の救い主・メシアは、人の病を知り理解し、苦しみを負い、弱い小さな存在を生かし支えて下さる方だと言うのです。
5節に「彼が刺し抜かれたのは、わたしたちの背きためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちの平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」とあります。救い主・メシアは罪がないのに、罪ある者に代わって罪を負ってくださる方です。イスラエルの人々が生きているのは、彼が刺し抜かれ、打ち砕かれて、痛みと苦しみを負ってくださってからだと言うのです。コリント信徒への手紙Ⅰ15章9節に「実際わたしは、神の教会を迫害したものであるから、使徒たちの中でいちばん小さい者であって、使徒と呼ばれる値うちのない者である。しかし、神の恵みによって、わたしは今日あるを得ているのである」とあります。今日こうして在るのは、わたしに代わってイエスが十字架の苦難と死を負ってくださったからだと言うのです。
 「生きがいについて」という著者の神谷美恵子さんは、日本の女性として先駆的な働きをされた方です。神谷さんを生かした要因は、ハンセン病を患う人々との出逢いでした。ハンセン病を患う人々について、「なぜわたしではなく、あなたですか。あなたはわたしに代わってくださったのだ」と述べています。生きる力は自分の中にあるのではなく、自分の代わりに苦しみを負ってくださっている方々の中にあり、ハンセン病を患った人々に生かされていると言うのです。「彼の受けた懲らしめによって、わたしたちの平安が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」とありますように、わたしたちはイエスの受けた傷によって赦され、生かされているのです。わたしたちの身代わりになって犠牲になってくださったイエスの十字架の贖いよって生かされている。そういう信仰に立って生きていきたいと思います。
 ヨハネ福音書9章2節,3節に、「弟子たちがイエスに尋ねた。『ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。』イエスはお答えになった。『「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したのでもない。神の業が、この人に現れるためである』」とあります。イエスは、どのような苦難にも神の御業と栄光を現す深い意味があると言うのです。その真理を信じて、イエスの十字架を見上げて、前進をしたいと思います。