与えられたテキストはルカ福音書14:1-6節です。1節に「安息日のことだった。イエスは食事のためにファリサイ派のある議員の家にお入りになったが、人々はイエスの様子をうかがっていた」とあります。イエスは安息日に、汚れた霊に取りつかれた人や18年間病の霊につかれた人を癒やし、律法を破っていました。マルコ福音書3章6節には、「ファリサイ派の人々は、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた」とあります。ファリサイ派の人々は、イエスは律法を破る危険人物と見なしていました。2、3節に「そのとき、イエスの前に水腫を患っている人がいた。そこで、イエスは律法の専門家たちやファリサイ派の人々に言われた。安息日に病気を治すことは律法で許されているか、いないか」とあります。「人々に言われた」には、原文では「向かって」という言葉があり、イエスと律法の専門家やファリサイ派の人々との間で激しい論争が行われていたことを示しています。また、この「言う」は本来は「尋ねた」という意味です。つまり、イエスは自分の考えが真理だからと言って、一方的に押しつけることはしません。その人が自分で考えて判断し、主体的に受け入れることを求めていることを意味します。
4節には「律法学者やファリサイ派の人々は、イエスの問いかけに黙っていた」とあります。この「黙っていた」は、彼らがイエスの問いかけを主体的に受け止めないことを意味します。彼らは自己を絶対化し、イエスを裁いて、イエスの言葉を聞こうとしませんでした。それに対して、彼らがイエスの言葉が自分に語りかけていると、主体的に受け止め、自らを相対化することを求めています。パウロはローマの信徒への手紙12章2節で、「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」と言っています。この「わきまえる」は「吟味する、検証する」という意味です。自己吟味、自己検証のない信仰は律法主義です。イエスは自分を吟味し、心を新たにし、日々自分を変えることを求めています。
2節に「イエスの前に水腫を患っている人がいた」とあります。文頭に「見る」という言葉があります。意訳すると、「見て、イエスは水腫を患っていた人を。」となります。この「見て」は、マタイ福音書9章36節の「群衆が飼い主のない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。」にあり、また、ルカ福音書10章33節の「ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て深く憐れみ、・・・」に用いられています。この「見る」は「深く憐れむ」と一緒に使われているのが特徴的です。「深く憐れむ」は、「スプランクナゼニサイ・腸(はらわた)を傷める」という意味で、イエスは、水腫を患っている人の苦しみの人生を見て、腸(はらわた)を傷めて、彼を癒やされたと言うのです。イエスは、ネバナラナイという律法からではなく、内側から起こってくる共感、共生、愛から、癒やされたです。イエスは苦しむ病人を見て、自分の腸(はらわた)を傷め、寄り添ってくださる方であると言うのです。
5節に「あなたたちの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか」とあります。当時のユダヤ教には寛容派と厳格派があったと言われます。寛容派は、人が井戸に落ちたという人命に関わる緊急事態の場合、道具を使わなければ(道具を使うことは労働とみなされる)、救命することは許されました。厳格派の律法の専門家たちやファリサイ派の人々は原理主義ですから、人の命よりも、律法を絶体化しました。マルコ福音書2章によれば、イエスはファリサイ派の原理主義者に対して、「安息日(律法)は、人のためにあるのであって、人が安息日のためにあるのではない」と言って、原理主義は否定しています。イエスは何をおいても最優先するのは人の命と救いであると言うのです。
マルコ福音書8章36-37節に「人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、何の得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買い戻すことができようか」とあります。この「命」ですが、創世記2章7節に「主なる神は土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」とありますように、「息」と訳されています。「息」は、漢字で「自(ハナ、わたし)」と「心」の会意文字です。つまり、「命」は「わたしの心」を意味します。わたしの心は、全世界をもっても替えられない、どんな代価を払っても買い戻すことができない尊厳をもっています。正に、掛け替えの無い存在であります。
エゼキエル書18章31節に「イスラエルの家よ、あなたがたはどうして死んでよかろうか。わたしは何人の死をも喜ばないのであると、主なる神は言われる。それゆえ、あなたがたは翻って生きよ」とあります。ヨハネ福音書3章16節には「神は独り子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである」とあります。イエスは、一人の心、一人の存在、一人の命の尊厳のために、自らを十字架に献げて下さいました。イエス・キリストの十字架の愛を見上げ、すべてを委ねて、前進していきたいと思います。