2018年7月15日 ルカ福音書13章10-21節 「神の国の到来」

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 与えられたテキストはルカ福音書13章10-21節です。三浦綾子さんは、戦争前、小学校の教員をされ、子どもたちに天皇と国家のために、進んで犠牲になることを無批判に教えていましたが、戦争が終わると、空しさに襲われ、虚無と絶望の中におかれました。その三浦綾子さんの価値観を逆転させたのが、「安息日(律法)は、人のためにあるもので、人が安息日(律法)のためにあるのではない」というイエスの言葉です(口語訳)。三浦綾子さんはこの御言葉に出会い、罪から解放され、救われたと言われます。
 今日のテキストは、その「安息日」に起こった出来事を記しています。イエスが安息日に、会堂で教えていると、そこに18年間病の霊に取りつかれ、腰が曲がって、どうしても伸ばすことができなかった女の人がいました。イエスはその女の人を呼び寄せ、彼女の上に手を置き、「婦人よ、病気は治った」と言われました。すると彼女の曲がった腰は真っ直ぐになり、癒されたと言うのです。ところが、会堂司は、イエスが安息日に病人を癒されたことに憤慨し、「安息日にしてはならぬことをした。許せない。なぜ安息日に癒すのか。18年間も病んでいたのだから、安息日が明けてから癒せば、問題は起こらないのに・・・・」と、安息日に病人を癒すことは重大な律法違反で、許されないと言うのです。マルコ福音書には「この出来事の後、ファリサイ派の人々は、ヘロデ派の人々と一緒になって、イエスを捕らえて殺そうと相談を始めた」とあります。イエスは、命懸けで病の霊に取りつかれた人を癒されたのです。何故でしょうか。それは、病気の人に対するイエスの熱い思いやりと愛です。
11節「そこに、18年間も病の霊に取りつかれている女がいた」とあります。この「女がいた」の「いた」は「置かれていた」という意味で、彼女は会堂の隅に荷物のように置かれていたと言うのです。彼女の存在に気づく人はいませんでした。しかし、イエスは、彼女の存在に気づき、イザヤ書に「わたしの目にはあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛する」とありますように、全存在を持って関わってくださるのです。イエスは「婦人よ、病気は治った」と言います。この「治る」は「自由になる。済む」という意味です。「あなたは、あなたを18年間も苦しめてきた病気からもう自由だ。もう済んだ。解放された」と言うのです。
16節に「この女はアブラハムの娘なのに、18年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきである」とあります。この「安息日であっても」は、原文を意訳すると「安息日においてこそ」となります。また、「解いてやるべきだ」の「べき」は、義務・責任というよりも、「必ずそうなる。当然そうなってしかるべきである」という意味です。イエスは「安息日においてこそ、この女の人は癒やされるべきであった」と言うのです。「なぜ、18年間も病の霊に取りつかれていた人が、安息日に癒されないのか」といぶかっているのです。安息日でこそ、貧しく、人知れず置かれているような存在に、目が注がれ、過去の罪としがらみから解放されるべきであると言うのです。
 イエスは、安息日に癒しの行為を行なうことによって、当時失っていた安息日の本来の意味を取り戻そうとされたのです。出エジプト記23章12節に、安息日の意味について、「あなたは六日のあいだ、仕事をし、七日目には休まなければならない。これはあなたの牛および、ろばが休みを得、またあなたのはしための子および寄留の他国人を休ませるためである」とあります(口語訳)。自分が休むためだけではありません。自分のために働いてくれた牛やろば、奴隷やその子ども、寄留の他国人を休ませるためであると言います。言い換えれば、自分のために働き、尽くしてくれたものにたいする思いやり、優しい愛が安息日の精神です。このイエスを厳しく批判する会堂長は、安息日を守っていると言いながら、18年間も病の霊に取りつかれている貧しい者の存在に気づいていません。会堂司は律法の精神を失っていると言うのです。「この女はアブラハムの娘なのに」は、「忘れてはならない存在」を意味します。つまり、イエスは、忘れてはならない存在なのに、忘れられてしまっている存在を見つけ出すために、来たと言うのです。
 18節からは「からし種とパン種」の譬話です。からし種は、種の中でもっとも小さい種です。しかし、その小さな種が育つと、この「鳥」は複数形で、多くの鳥が宿るほどの大きな木になると言うのです。パン種も目に見えないイースト菌です。しかし、見えないパン種を三サトンの粉に混ぜると、その粉が大きく膨れたパンになると言います。「神の国は何に似ているか、何にたとえようか」とありますように、神の国、つまり、神の支配のたとえです。18年間も病の霊に取りつかれていた人も、小さくされた者です。その最も小さくされた者が病から解き放たれ、神の支配は始まっていると言うのです。会堂長は、その真理に気づかないで、イエスが安息日に病人を癒やしたと言って腹を立てています。イエスの働きに信頼と希望を見出せなかったのです。そこに会堂司の問題がありました。パウロは「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです」と言っています。神の支配と救いの御業は、目に見えませんが、しかし、神の支配はすでに、確かに始まっているのです。その事実を信じ、信頼して、委ねていきましょう。