テキストはイザヤ書51章1-3節です。著者は第二イザヤと言って、バビロン捕囚民の一人で、無名の預言者です。歴代誌下36章、列王記下25章には、「神殿には火が放たれ、エルサレムの城壁は崩され、宮殿はすべて灰燼に帰し、貴重な品々はことごとく破壊された。剣を免れて生き残った者は捕らえられ、バビロンに連れ去られた。ゼデキヤ王の王子たちは殺され、王自身は、両眼をえぐり取られ、足枷を填められ、バビロンに連行された」と、400年続いたダビデ王朝の終熄と捕囚について記されています。イスラエルの人々は、国家の滅亡と捕囚で心は傷つき、虚無感にうちのめされ、絶望していました。第二イザヤは、その絶望と苦難の時代に神に召され、神の言葉を語るように命じられたのです。
2節に、「あなたたちの父アブラハムとあなたたちを産んだ母サラに目を注げ」とあります。普通は、「アブラハム、イサク、ヤコブ」と三人の族長が挙げられるところですが、第二イザヤは三人を挙げないで、「アブラハムとサラ」の名前を挙げています。それは、「アブラハムとサラ」でハランを暗示しようとしているのではないかと思います。つまり、捕囚民は「ハラン(新バビロン)」に連行されたと言うのです。創世記11章31節、12章1,2節には、「彼らはハランに来ると、そこにとどまった。テラは二百五年の生涯を終えて、ハランで死んだ。主はアブラム(アブラハム)に言われた。『あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように』」とあります。ハランは、アブラハムが神の言葉に出会い、全てを捨てて、新たに出立した場所、謂わば、信仰の原点です。そのハラン(新バビロン)にイスラエルの民は、捕囚民として連行され、そこで60年間も苦難の生活を送ったと言うのです。つまり、捕囚と苦難はイスラエルの民を信仰の原点に戻し、新しく出立させる神の出来事だと言うのです。
イスラエルの民は、捕囚民として2千㎞もある荒れ野と砂漠の中を連行され、苦しい旅を続けました。バビロンでは、マルドゥク(戦争の神)やシャマシュ(太陽の神)、シン(月の神)の神々が礼拝され、ヤーウェ・主なる神を礼拝することはできませんでした。彼らは不条理な苦難に出遭い、意味を見出せないで絶望していました。その時、第二イザヤは神に召されて、捕囚の苦難の意味を明らかにするように命じられました。つまり、アブラハムがハランで、神の言葉を聞き、新しい旅立ちをしたように、イスラエルの人々が新しく旅立つための捕囚であると言うのです。イエスが「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」と言って、苦難の意味を明らかにされたように、第二イザヤは捕囚の意味を明らかにしているのだと思います。つまり、捕囚の苦難は、イスラエルの民が神の言葉を信じて、新しい出立するための苦難であると言うのです。
2節に「わたしはひとりであった彼を呼び、彼を祝福して子孫を増やした」とあります。原文には、文頭に「ただ」という言葉があります。直訳すると、「ただひとりであった彼をわたしは呼び、彼ひとりを祝福して子孫を増やした」となります。旧約聖書では、これまでは、国家と民族が中心で、一人の存在は重要な意味を持っていませんでした。しかし、第二イザヤは、「わたしの目にはあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛する」と言っているように、「あなた」に重要な意味を持たせています。国家の滅亡とバビロン捕囚があって、一人の存在が重要視しされ、尊重されるようになったのです。一人ひとりの信仰がイスラエルの祝福の基になると言うのです。
3節には、「廃虚、荒れ野、荒れ地」という言葉がありますが、これらの言葉はバビロンによって破壊された「エルサレム」を意味します。バビロンはエルサレム神殿や宮殿や城壁を崩壊しました。それだけでなく、人間の存在、人間の繋がり、人の心をも破壊したと言うのです。第二イザヤは、エルサレムの崩壊という暗黒と絶望の中で、「主はシオンを慰め、またそのすべての廃虚を慰め、荒れ野をエデンの園とし、荒れ地を主の園とされる」という神の言葉を聞くのでした。「荒れ野をエデンの園とし、荒れ地を主の園とする」は、全てを創造された神の業、働き、力を意味します。神は、徹底的に破壊されたエルサレムをエデンの園のように再創造すると言うのです。イザヤ書44章28節に「キュロスに向かって、わたしの牧者、わたしの望みを成就させる者、と言う。エルサレムには、再建される、と言い、神殿には基が置かれる、と言う」とありますように、第二イザヤは、ペルシャ王キュロスがバビロンを倒し、イスラエルの捕囚民を解放すると預言していました。しかし、ここでは、世の覇権や権力ではなく、神の創造の御業と力によって、捕囚民は解放され、エルサレムと神殿は再建されると、神の御業を讃えています。
3節eには「そこには喜びと楽しみ、感謝の歌声が響く」とあります。原文は、「喜びと楽しみ」の次に「戻る」という言葉があります。意訳すると「喜びと楽しみが戻る」となります。また、「響く」は「甦る」という意味で、「感謝の歌声が甦る」となります。「そこには」は「時が来る」という意味です。意訳すると「そこには喜びと楽しみが戻り、感謝と歌の声が甦る。その時が来る」となります。捕囚民は、60年間も苦難と虚無に苦しんできました。しかし、その運命が変えられる時、苦難と悲しみが喜びと楽しみに変えられる時は来ると預言しています。神の力強い約束の言葉を信じて、今は闇のような中にあっても、未来に希望を抱いて歩んで行きたいものです。