与えられたテキストはルカ福音書12章49-53節です。加藤常昭先生は画龍点晴という四字熟語で解釈しています。画龍点晴は、絵に描いた龍に目を書き入れると、龍が生き、天に昇って行ったと言う故事に由来し、ある一点、目を書き入れることによって死んでいたものが命を得て生きると言う意味です。加藤先生は「信仰にも画龍点晴がある。一点・目を欠いたら、命を失ってしまう。逆に一点・目が入れられれば、命を得る。その一点・目はキリストと結びつくことである。イエス・キリストと結びついているという信仰と経験がないならば、どんな立派な信仰も、それは絵空事、生き生きした信仰にならない」と言っています。
パウロは、「主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、主にあって喜びなさい」、「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです」、「主に結ばれているならば自分たちの労苦が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはぜです」と、「あって」、「結びついて」をしばしば用いています。ヨハネ福音書15章5節には「人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである」とあります。イエスに結びつく、繋がらなければ、生きた信仰にならないと言うのです。
今日のテキストは、画龍点晴、一点・目、つまり、キリストに結びつく、キリストに繋がるがテーマです。51節に「あなたがたは、わたしが平和をこの地上にもたらすために来たと思っているのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。父は子と、子は父と、母は娘と、娘は母と、しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、対立して分かれる」とあり、これがイエスの言葉かといぶかります。しかし、この言葉にも、一点・目を入れると、画龍点晴、生きた言葉になります。それは、イエスと結びつく、繋がるということです。信仰にとって最も本質的なことは、主に繋がること、結びつくことであると言うのです。
ヨハネ福音書15章2節に「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに結ぶように手入れをなさる」とあります。主イエスに結びつき、繋がるためには、切り捨てる決断が求められると言うのです。八木重吉の「私の詩」に、「裸になってとびだし/基督のあしもとにひざまずきたい/しかしわたしには妻と子があります/すてることができるだけ捨てます/けれども妻と子をすてることはできない/妻と子をすてぬゆえならば/永劫の罪もくもるところではない/ここに私の詩があります。」とあります。重吉は、キリストに結びつきたいという捨て身の願いと現実の間で、大きく動揺しています。
重吉がひたむきであればあるほど、矛盾は大きく、苦しみは深いと思います。しかし、信仰は、その矛盾の中で、キリストへの結びつき、繋がりを深めていくのではないでしょうか。信仰は、弁証法的で、イエスと結びつけば、父母・兄姉を捨てるという命題は止揚されて、イエスを愛し、父母・兄姉を愛することが同時に成り立つのではないでしょうか。
今、信仰は画龍点晴だと申しました。描かれた龍は自分で目を点じることはできません。画家が目を点じてくれない限り、命に生きることはできません。信仰もまた、同じで、イエスに目を点じてもらわなければ、永遠の命に生きることはできません。49節に「わたしが来たのは、地上に火を投じるためである」とあります。この火は画龍点晴の目であり、神の霊、霊の力を意味します。その「火」である神の霊をいただく時、信仰は力強く働きます。私たちは、主イエスの手によって、目を入れていただき、火を点じていただかなければなりません。イエスに結びつき、繋がることから全てが始まり、新しい命を受けることができます。
フランチェスコの言葉に「主よ、わたしをあなたの平和の器としてください。憎しみのあるところに愛を、争いのあるところに赦しを」という祈りがあります。宮沢賢治も「アメニモマケズ」の詩で、「東に病気の子どもがあれば、行って看病してやり、西に疲れた母があれば、行ってその稲の束を負い、南に死にそうな人があれば、行って怖がらなくてもいいと言い、北に喧嘩や訴訟があれば、つまらないからやめろと言い、皆からデクノボーと呼ばれ、ほめられもせず、苦にもされず、そういう者に、わたしはなりたい」とあります。フランチェスコの詩も宮沢賢治の詩も、その根底にイエスの和解と平和の祈りと願いがあります。「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そではない。言っておくが、むしろ分裂だ」と言われます。この言葉は逆説です。イエスは真の和解と平和をもたらしました。分裂と争いのためではなく・和解と平和のために自らを十字架に献げました。エフェソの信徒への手紙2章14節「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、ご自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました」とあります。イエスが来られたのは、和解をもたらすことであり、歪んだ人間関係を癒やし、悲しみの人間関係を慰め、争いのあるところに平和・和解を造り出すためであります。「主よ、わたしをあなたの平和の器として用いてください」という祈りを献げていきましょう。
八木重吉に「神様の御心と一所にいよう」と言う詩があります。「イエスの名を呼びあつめよう/入る息 出る息ごとに呼びつづけよう/いきどおりがわいたら/イエスの名で溶かそう/弱くなったら/イエスの名でもりあがって強くなろう/きたなくなったら/イエスの名できれいになろう/死の陰をみたら/イエスを呼んで生きかえろう」。八木重吉は堅く、強く、深くイエスと結びつき、繋がっています。そこに命がありました。私たちも、ぶどうの枝が幹に繋がるように、キリストに結びつき、繋がっていきたいものです。その時、豊かな実を結ぶことができますす。