日野原重明先生に「死をどう生きたかーわたしの心に残る人々―」という著書があります。先生が主治医として診察された患者の中で、特に印象に残った方々のことが記されています。その内の千浦美智子という女性ですが、彼女は考古学者で漸く研究の成果が評価され、学者としてこれからと期待されていた。その矢先にガンに侵され、夫と二人の子供を残し、35歳で亡くなられました。ある日、日野原先生が、千浦さんの病室を訪ねますと、彼女は「わたしの体はいつまでもつのですか」と尋ねました。すると、先生は、「そのことは医者であるわたしでもはっきり言うことは難しいです。わたしの命だって、いつ何が起こるか分からないのです。与えられている今の時を大切に、いつ召されてもという平静な気持になれれば、どんなにかいいことでしょう」とおっしゃり、今日のテキスト、ルカ福音書12章39、40節の「このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒がいつやって来るかを知っていたら、自分の家に押し入らせはしないだろう。あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである」という御言葉を読まれたそうです。先生は、「わたしの体と命はいつまでもつのですか」と問う彼女に、「その問いには答えはないです。主を迎える用意をして欲しい」と言われるのです。注目したい点は、先生が「死を迎える用意をしなさい」と言われるのではなく、「主を迎える用意をして欲しい」と言われる点です。つまり、主を迎え、主に委ねる用意をすることから、深い慰めと平静心が与えられると言われるのです。
先生は「医師も看護師も、病む人を癒すことは時々しかできなくても、和らげることはできる。病む人を慰め、支えになることは、いつもできることではないか。それを私たちはやっているか?そのために時間を与えているのか?」と問うています。また、「医師として、病む人を時々しか治すことができない。苦痛を和らげるも時々しかできない。しかし、病む人を慰めることはいつでもできる。しかし、病人を慰めることは大変困難である。慰めることにどれだけ心を使い、時間を与えているか。そして、慰めは、主を迎え、主に委ねる用意から生まれる」と言っています。主を待ち、主に委ねる信仰は深い慰めになると言われるのです。
37節には「主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ」、38節には「主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ」とあります。この「幸い」は、神からの祝福を意味します。言い換えれば、その人の人生が肯定され、永遠の命に繋がる者とされたことを意味します。フィリピの信徒への手紙3章8節で「そればかりか、主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失と見ています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています」とあります。主イエス・キリストと言う世の何物にも替えられない、人の生命を超えた永遠の命を得ようとする者の「幸い」を言っています。イエスはそのような目に見えない「幸い」を求めて生きることを勧めています。
この「幸い」は、ギリシャ語で「マカリオス」と言って、本来は、「獄中の人に差し入れすること」を意味します。差し入れは獄中の人にとって、何にも代えられない慰めであり、暗闇に差し込む一条の光のようだと言われます。神は罪に捕らわれている者に、暗闇に注がれる一条の光として、主イエス・キリストを差し入れてくださるのです。
35節には「腰に帯を締めて、ともし火をともしていなさい。主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしなさい」とあります。勿論、「主人」は「主イエス」を意味します。「待つ」のは、他の何者でもありません、主イエスです。この世のあれこれを待望するのではなく、主イエスの到来を待望するのです。しかし、主イエスの到来は、目に見える事柄ではなく、目に見えない信じる事柄です。また、誰でも受け入れられることではありません。しかし、私たちは、何を置いても、主イエスを信じ、受け入れ、主を待望する者であることを期待していると言うのです。
パウロは、コリントの信徒への手紙Ⅱ5章7節で「わたしたちは見えるものによらないで、信仰によって歩いているのである。それで、わたしたちは心強い。」と言っています。見えることだけを信じる者は、主イエスの到来を信じることはできません。
しかし、「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです」とありますように、わたしたちは見えるものによらないで、信仰によって歩みます。主イエスの到来を堅く信じる信仰を育てなければならないと思います。そうすれば、あらゆる苦難と死を突き抜ける希望を与えられます。日野原先生は「医師として、病む人を癒し、痛みを和らげるだけでなく、慰めと平静心を与えなければならない。そのためには、主イエスの到来を待ち信じることを伝えなければならない」と言います。ひたすら主イエスの到来を待望し、主に委ねる時、人知を越えた慰めと平静心が与えられると言うのです。わたしたちは心躍らせ、胸をときめかして、主イエスを待ち望み、主に委ねる者でありたいと思います。主イエスを待望し、主に委ねる信仰を持つ者は幸い・マカリオスだと言います。わたしたちの心の中に何よりも主イエスの到来を待望し、主に委ねる信仰を育てていきましょう。