2024年8月25日 「神の愛と信仰」創世記4:1-10 コリントⅡ12:8-10

 

カインとアベルの物語です。カインとアベルの兄弟が、神に献げ物をすると、神はアベルの献げ物には目を留めたが、カインの献げ物には目を留めませんでした。カインは激しく憤り、怒り、アベルを野原に連れ出し、殺害してしまう。スタインベックの「エデンの東」や有島武郎の「カインの末裔」に影響を与えた物語だと言われています。「カイン」は、原語では「カーナー」と言い、「力強い生命力、豊かな能力」という意味です。「アベル」は、「ヘベル」と言い、「息、蒸気、はかいもの、空虚、無価値、無意味」などの意味です。神が目を留めたのは、力強い生命力や能力をもったカインではなく、息や蒸気のようにはかない、空虚で無価値な存在であるアベルです。そこにメッセージがあるのではないかと思います。

申命記7章7節に「主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民より貧弱であった。ただ、あなたたちに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓を守られたゆえに、主は力ある御手を持ってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。」とあります。イスラエルの民がエジプトの奴隷から救出されたのは、神が、数が少なく、弱小で、貧しい人々に目を引かれ、愛するが故であるというのです。

マタイ福音書20章1節以下に、「ぶどう園の労働者」の譬えがあります。ぶどう園の主人は、働き人を雇うために、仕事がなく、一日中立ち尽くしている人々の集まる集会所に出掛けて行き、働き人を探し、夜明け頃見つけ、一日一デナリオンで雇いました。更に、九時頃に行き、十二時頃、三時頃、五時頃行き、雇いました。そして、日が暮れたので、契約の一デナリオンを払うとしました、すると、朝早くから、また、九時頃、十二時頃、3時頃から働いた人々が、5時頃雇われた人たちを見て、「最期に来た連中は一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちを、この連中と同じ扱いにするとは、納得がいかない。」と文句を言いました。13節に「主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたは、わたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないのか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』」とあります。神は貧しい者、弱い者、苦しむ者に心惹かれ、目を注がれるというイエスの信仰が表れていると思います。

申命記14章28節に「三年目ごとに、その年の収穫物の十分の一を取り分け、町の中に蓄えておき、あなたたちのうちに嗣業の割り当てのないレビ人や、町の中にいる寄留者、孤児、寡婦がそれを食べて満ち足りることができるようにしなさい。そうすれば、あなたが行うすべての手の業について、あなたの神、主はあなたを祝福するであろう」とあります。「あなたの神」の「神」は、カインとアベル物語に使われている神は「ヤッハウェ」という言葉です。ヤッハウェストの信仰が土台にあります。ヤッハウェストは、イスラエルが弱小国を倒し侵略し略奪し大国になり、政治的、経済的に冨、栄え、高慢になった状況の中で、弱小なもの、貧しい者を愛するヤッハウェの神信仰を思い起こさせます。マルコ2章16節、17節に、ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人や罪人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに、「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」とあります。この「罪人」は、律法を守っていない異邦人や病人や、弱い者、貧しい者のことです。イエスが来たのは、彼らの救いのためであると明言しています。

カインがアベルを殺害したことは許されません。神はカインが持っていた羊の中で肥えた初子を献げたのに、目を留めません。しかし、土の実り、野菜をささげたアベルには、祝福を与えています。カインは冷静でいることができず、激しく憤ります。4章5節に「カインは激しく怒って顔を伏せた。主はカインに言われた。『どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。』」とあります。「顔を上げる」は、「伏せる」に対照させて、「まっすぐに立つ」という意味で、「本来の人間の在り方」を意味します。つまり、本来の、神の創造されたカインで、在りのままのカインで存在しなさいというのです。6節に「罪は戸口で待ち伏せており、お前を求めている(野獣が口を開けて獲物を狙っている様)。お前は罪(野獣を)支配しなければならない」とあります。神は、カインが野獣、罪に束縛される者になるのではなく、罪から自由になることを求めているというのです。16節に、「カインは、神を離れてノドというところに住んだ」とあります。「ノド」は「焦り、動揺、不安、絶望」という意味です。カインを苦しめた罪は虚無と絶望です。また、カインが戦って勝たなければならなかった課題です。この「罪」は、ヘブル語で「ハーター」と言い、「的をはずす、目標、道をはずす、神の定め道を踏み外す」という意味です。パウロは、罪は愛の反意語、愛、情け深い、寛容、気長の反意、気短、単純、浅い思い謀りであると言います。

ヨブ記のヨブは多くの苦難を負わせられます。十人の子どもが災害で亡くし、全財産を奪われます。それでもヨブは「わたしは、裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」と神をたたえ、不条理を受け入れます。更に、ヨブは重い皮膚病に襲われます。妻は「あなたはどこまでも無垢でいるのですか。神を呪って、死ぬ方がましでしょう」と言います。すると、ヨブは「お前まで愚かのことを言うのか。わたしたちは、神から幸福をいただいているのだから、不幸もいただこうではないか」と諭しています。ヨブは神を疑わない、絶望を超えた神の希望を信じています。ヨブは、粘り強く神を信じ、神の希望を失わないで、生きることを求めます。

6節に「もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずである」とあります。「正しい」は「精一杯、楽しく、愉快に生きる」です。「顔を上げる」は「希望を持って生きる」という意味です。イザヤは、「信じなければ、あなたがたは確かにされない」と「神の言葉を信じて生きよ」といいます。パウロは、生まれながらの病気を持っていました。それを癒してくださいと何度も祈りましたが、叶えられませんでした。しかし、神の力は弱いところに完全に発揮されると信じています。イエスがわたしの救いのために、命を献げてくださった。その事実を信じ、希望をもって歩んでいきたいと思います。