2024年9月1日 「弱さを思いやる信仰」イザヤ38:1-8 ヘブライ4:14-16

与えられたテキストはイザヤ書38章1-8節とヘブライ人への手紙4章14-16節です。イザヤ書38章17節に「見よ、わたしの受けた苦痛は、平和のために他ならない。あなたはわたしの魂に思いを寄せ、滅びの穴に陥らないようにしてくださった。あなたはわたしの罪をすべて、あなたの後ろに投げ捨ててくださった。」とあります。「わたしの受けた苦痛」とは、南ユダ王国のヒゼキヤ王が、突然、重病にかかり、死を宣告され、死の恐怖と絶望に苦しんだことを意味します。38章1節に「そのころ、ヒゼキヤは死の病にかかった。預言者、アモツの子イザヤが訪ねて来て、主はこう言われる。『あなたは死ぬことになっていて、命はないのだから、家族に遺言しなさい。』と言った」とあります。ヒゼキヤ王は死の宣告を受け入れることができないで、悩み苦しみ、絶望しました。38章2節に「ヒゼキヤは顔を壁に向けて、主にこう祈った。『ああ、主よ、わたしがまことを尽くし、ひたむきな心を持って御前を歩み、御目にかなう善いことを行ってきたことを思い起こしてください。』こう言って、ヒゼキヤは涙を流して大いに泣いた。」とあります。4節には「主はこう言われる。わたしはあなたの祈りを聞き、涙を見た。見よ、わたしはあなたの寿命を十五年延ばし、アッシリアの王の手からあなたとこの都を救い出す。わたしはこの都を守り抜く。」とあります。神は、死の宣告を受け、絶望し、涙を流し大泣きするヒゼキヤを見て、ヒゼキヤとエルサレムを救い出すと約束するのです。ヒゼキヤの苦悩と痛みは、イスラエルの救いと平和のためであるというのです。この「救い出す」は、「平和、幸福、平安」を意味します。ヒゼキヤの苦痛、悲しみ、絶望がスラエルの平安、幸福、平和を生み出すというのです。常識的には言えば、苦しみと苦難は、人を苦しめ、不幸にします、しかし、イザヤが言うことは逆説です。預言者イザヤは苦痛、苦難、悲しみが平安,幸福、平和を生み出すというのです。

或る方が身体の具合が悪いからと言って、精密検査を受けました。ところが、青天の霹靂、進行性の癌が見つかったのです。ただ事ではありませんでした。彼女は失望落胆し、ヒゼキヤ王のように壁に顔を向けて、大粒の涙を流し、大泣きされました。しかし、不思議にも、心は落ち着いていました。いつものように御言葉を読み、全て神に委ねますと、神に祈ることができました。そして、手術を受けられました。驚くべき切り替えができたのです。神を信じる信仰が、彼女をして窮地を乗り越えさせたのです。 若い時代によく聞いたフォーククルセダーズの加藤和彦さんは亡くなれました。彼は才能豊かな作曲家、音楽プロデューサーでした。「悲しくてやりきれない」という曲があります。「胸にしみる、空のかがやき、今日も遠くながめ、涙をながす、悲しくて、悲しくて、とてもやりきれない、このやるせなさ、モヤモヤを、だれかに告げようか。悲しくて、悲しくて、とてもやりきれない、この限りない、むなしさ、救いはないだろうか。」と歌います。加藤和彦さんの死を予告しているような歌です。加藤和彦さんは、今も絶望感から救う道はあるのか、と問いかけています。イザヤは、イエスは苦しみと絶望から救われる道は必ずある、必ず見つかると言います。

わたしの知人は、不登校で、高校卒業後も、家に引き籠っていました。在るとき、ようやくアルバイトを見つけ、働き始めました。しかし、直ぐ職場のトラブルで、元に戻り、引き篭もってしまいました。彼はフォーククルセダーズの「悲しくてやりきれない」という曲をよく聞いていました。詩は、サトウハチローさんの詩です。暗くて、わびしく、虚無的です。「このとてもやり切れない思いを告げる者はいない。この限りない、空しさから、救う者はない」とありますが、救いの道は必ずあるとイザヤの言うことです。

 38章32節に、「ヒゼキヤ王は顔を壁に向けて、主にこう祈った」とあります。コリントの信徒へ手紙Ⅰ10章13節に「神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださる」とあります。パウロは、神は絶望から救われる道を必ずそなえていてくださると言います。17節に、「見よ、わたしの受けた苦痛は、平和ためにほかならない。あなたはたしの魂に思いを寄せ、滅びの穴に陥らないようにしてくださった。」とあります。「陥らないように」とは、「命綱を投げる」と言う意味です。神は溺れている者に命綱を投げてくださる。そこに救いがあると信じたいと思います。「苦痛」は、ヘブル語「マーラル」と言い、原語は「変えられる」という意味です。つまり、「苦しみ」は「人を変える、生まれ変えらせる」というのです。ヒゼキヤ王は、癌を発病して、15年生かされます。その15年間は、人が変わったように、良い働きをしされました。北イスラエルの人々が、アッシリアに滅ぼされ、捕囚として連行されると、彼らに救いの手を差し伸べます。また、貧しい生活をしていたレビ人や外国の寄留者や寡婦や孤児を手厚く扱っています。ヒゼキヤ王の苦痛は、敵を愛し、貧しい者を思いやる愛を生み出し、人を生まれ変わらせる事実を証しています。

パウロは、「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生み出す」と言っています。「練達」は「人格、品性、立派な性質」という意味です。 ヘブライ4章14、15節に「さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、試練に遭われたのです。」とあります。「弱さに同情する、弱さを思いやる」は、「腸、はらわた」という意味で、「お腹を痛めるほどの思いやり、優しさ」を意味します。言い換えれば、苦痛は「弱い人を思いやる心」を生み出し、弱さを思いやる心は、平和、平安、幸福の源であることを示しています。

精神科医の平井信義先生は「40数年にわたって子どもと関わり、研究を続けてきた結論として、子どもに『思いやりと意欲』を育てれば、自立した青年になる」と言って、思いやりの心の大切さを強調しています。ローマの信徒への手紙5章2節に「このキリストのお蔭で、今の恵みに導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を生み出す。練達は希望を生むということを。」とあります。「練達」は「思いやりの心」という意味です。パウロは「思いやりの心は希望を生むことをあなた方は知っている」と言います。何に事に出会っても、練達、思いやりの心を失うことなく、信じていきたいと思います。