2024年9月15日 「神に招かれて」 エレミヤ1:4-10 マルコ1:14-20 

 与えられたテキストはエレミヤ書1章4-10節とマルコ福音書1章14-20節です。エレミヤが預言者に召命された出来事が記されています。エレミヤが、神に召されることはエレミヤにとって。同時に、イスラエルにとって重大な出来事でした。中学・高校学校の教師時代のことですが、同僚がくも膜下出血で倒れ、救命救急センターに運ばれ、大きな手術をされ、奇跡的に命を取り留めることができました。彼女は大きな障碍を負い、教師を辞められました。失望落胆し、絶望されているのではないかと心配していました。或る日、彼女から手紙を頂きました。「全く動けなくなり、寝っきり同然です。回りの人たちに迷惑をかけるようになりました。しかし、謙虚になって、率直に。人の世話を受けることを感謝しています。重荷は神さまからの賜物と受け入れています。神さまは、わたしに祈りという一番良い仕事を遺してくださったと感謝しています。苦難に打ち勝つ信仰と希望は教会の交わりから与えられましたという内容でした。彼女は東北から上京され、まず一番に探されたのは、信仰生活を継続していくために、自由で明るい。自分が在りのままの自分でいられる教会を探されたそうです。重荷を負った者が自由で、ありのままの自分でいられ、粘り強い信仰を与える教会が見つかったそうです。重荷を負った者への神さまのプレゼントだと思うと言っておられました。今も、活発に教会生活、社会活動を続けておられます。

臨床心理士の斉藤登志子さんは「教会には多くの『ネバナラナイ』という不文律が存在し、自由で福音的な信仰を失っていると思う。例えば、礼拝に出席しなければならない、聖書を読み祈らなければならない、奉仕をしなければならない、許さなければならない、などです。勿論、『ネバナラナイ』は大事なことであることは否定しません。しかし、『ネバナラナイ』が原則になり、律法主義や義務感が中心になるなら、信仰と霊生活に悪い影響を与えると思います」と述べています。柏木哲夫先生は、「教会は、『ネバナラナイ』ではなく、『シタイ』が行動の原則になる必要がある」と述べていました。コリントの信徒への手紙Ⅰ9章16節には、「もっとも、わたしが福音を告げ知らせても、それはわたしの誇りにはなりません、そうせずにはいられないことだからです。福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです。自分からそうしているなら、報酬を得るでしょう。しかし、強いられてするなら、それは、ゆだねられている努めなのです。」とあります。パウロは「キリストの愛に促されて、福音を伝えなければいられないのです」というのです。礼拝に出席しないではいられない、聖書を読まないではいられない、祈らないではいられない、神を愛さなければならない、ネバナラナイ・must・ではなく、愛したい・したい・wantが行動原則になる。愛したい、赦したいが教会の行動原則の中心になるというのです、

エレミヤ書1章6節に「わたしは言った。『ああ、わが主なる神よ、わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから。』」とあります。エレミヤは神に預言者に召されたとき、神の言葉を語るには、若すぎると断ります。

7節には、「しかし、主はわたしに言われた。『若者に過ぎないと言ってはならない。わたしがあなたを、だれのところへ、遣わそうとも、行って、わたしの命じることをすべて語れ。』とあります。この「語れ・カーラー」をどのように解釈するか?で信仰理解も違ってきます。例えば、協会訳は、「語らなければならない・mustネバナラナイ・義務」と理解します。共同訳は「語れ」命令形です。命令ですから、従うか、従わないかの自由を認めています。ある聖書は「語るようになる、する・shall」と訳しています。「わたし(神)が、語るようにする」なります。

6節に「ああ、わが主なる神よ、わたしは語る言葉をしりません、」とあります。この「神」は「ヤッウェ」で、「成らせる神」という意味です。エレミヤは神に出遭い、預言者になり、神の言葉を語る者になったのです。5節に「わたしはあなたを聖別し、諸国民の預言者として立てた。」とあります。「立てる」は、「語れるようにする」という意味で、神の約束です。神は語る言葉を知りませんというエレミヤを諸国民に語れる預言者にするというのです。

マルコ福音書1章17節に「イエスは、『わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう。』と言われた。」とあります。ペトロとアンデレを招く場面です。「わたしについて来なければならない」ではありません。「わたしが、I will、あなたを漁師にしよう、漁師にする」です。「わたしが」というイエスの思いがあるから、ペトロはついていくのです。同時に、ペトロに「ついて行きたいwant」という思いがあります。フィリピの信徒への手紙2章13節に、「神はあなたがたの内に働きかけ、その願いを起こさせ、かつ実現に至らせる。」とあります。この「願い・セオー」は、「喜んですること、自ら進んですること」という意味です。「起こす」は「造る」という意味です。つまり、神はわたしたちの内に、喜んですること、自ら進んですることを起こされるのです。

その日、ペトロとアンデレは夜通し働きました。一晩中、網を打ち、魚をとっていました。しかし、何も獲れませんでした。働いても、働いても、何も成果がありません。二人は打ちひしがれて、岸辺に座り込んでしまいました。そのとき、イエスが近づいてきました。そして、「もう一度、舟を出して漁をして御覧なさい」と言われました。ペトロは「先生、無駄です。これまでの経験や知識から見て、やっても駄目です。今日は駄目です。魚はここにはいません」と答えました。「しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と言って、降ろしました。すると網を上げられないほど、おびただしい魚が獲れました。ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です」と叫んだと言います。「漁をしてみなさい」。「降ろしてみましょう」。どこにもネバナラナイ、義務感はありません。「しかし、お言葉ですから」は、イエスの言葉は、彼らの心のうちに働きかけて「やってみよう、やってみたい、want 」を起こしたのです。

羽仁もと子の著作の中に、「人間の中の生き方には二種類あって、一つは『やってみよう』、もう一つは『どうせ駄目だ』という生き方です。『やってみよう』は神さまに造られた本性です。どうせ駄目は、神さまに逆らう罪と言えます」と言っています。神は本当に自分のしたいことをすることを喜ばれ、ネバナラナイ・義務感や気兼ねからすることは喜ばれません。シタイという思いから起こる行為は、ネバナラナイ・義務感からする行為より強く、長続きがします。或る方は、身体が不自由になってから、礼拝に出たくて、出たくて待ちきれないような思いで出掛けるようになったと言いました。聖書を読むのも、ネバナラナイのではなく、喜んで読めるようになる。祈りもそうです。「喜んでする」と、これまでに増して、力が与えられ、恵みを受ける。そういう生き方が与えられるのが、イエスがたえずわたしたち一人ひとりを招いてくださっているからです。