エゼキエルは、第一回のバビロン捕囚で(BC598)、ヨヤキン王と共にバビロンへ連行されました。その5年後の或る日、ケバル川のほとりで、神の幻を見る霊的体験をし、預言者の召命を受けました。ゼデキヤ王は、バビロンの侵略に対抗し、エゼキエルの警告を無視し、エジプトに援助を求めました。エゼキエルの警告どおり、バビロンのネブカドネツァル王は激しくイスラエルを攻撃し、一年半後、エルサレムは陥落し、イスラエルは滅びました。400年続いたダビデ王朝は終熄しました。
エゼキエルは、なぜそのような悲惨なことが起こったのか、その理由を述べています。つまり、飼い主である王、祭司、指導者が、本来の飼い主としての働きを失い、悪行を重ねたからだと言うのです。8節に、「わたしの群れには牧者がいないために、あらゆる野の獣の餌食になろうとしていたのに、わたしの牧者たちは群れを探しもしない。牧者は群れを養わず、私腹を肥やしている。」とあります。4節には「弱い者を強めず、病めるものを癒さず、傷ついたものを包んでやらなかった。また、追われるものを連れ戻さず、失われたものを探し求めず、かえって力ずくで、過酷に群れを支配した。彼らは飼う者がいないので散らされ、あらゆる野の獣の餌食になり、ちりぢりになった。わたしの群れは地の全面に散らされ、だれ一人、探す者もなく、尋ね求める者もない」とあります。エゼキエルはヨヤキン王やゼデキヤ王や祭司や指導者たちが悪行を重ねたので、神はバビロンを用いて、厳しい裁きを下したというのです。
エルサレムはバビロンの侵略と捕囚で完全に破壊され、苦難と試練の時代が始まり、続きました。すると。エゼキエルは神の許しとエルサレム復興を預言します。33章11節には「彼らに言いなさい。わたしは生きている、と主なる神は言われる。わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から、イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよかろうか。」とあります。そして、34章23節には「わたしは彼らのために一人の牧者を起こし、彼らを牧させる。それは、わが僕ダビデである。彼は彼らを養い。その牧者となる。また、主であるわたしが彼らの神となり、わが僕ダビデが彼らの真ん中で君主となる。主であるわたしがこれを語る。」とあります。「わが僕ダビデ」と言いますが、ダビデは既に五百年前にイスラエルを治め導いていますから、実際のダビデ王のことではなく、イスラエルの救い主・メシアを意味しています。イスラエルを救う者が必ず出現するという預言者のメッセージです。
ヨハネ福音書10章11節には「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」とあります。「良い羊飼い」の「良い」は「カロス」で「美しい、魅力ある、高潔な、慰めに満ちた」という意味があります。ちなみに、もう一つの「良い」は「アガロス」で、「有用な、役に立つ、道徳的、知的に優れている」という意味です。この「良い羊飼い」は「カロス」ですから、「慰めに満ちた羊飼い、心の美しい羊飼い、人を真理に導く羊飼い」となります。具体的に言いますと、「羊のために命を捨てる羊飼い」です。エゼキエル的に言えば、「群れを養い、私腹を肥やない、弱い者を励まし、病める者を癒し、失われた者を探す羊飼い」です。マルコ福音書10章42節に「そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。『あなた方も知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなた方の間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。』」とあります。イエスは「良い羊飼いは羊のために命を献げる、多くの人のために身代金として御自分を献げる」と告白しています。
ヨハネ福音書時代の教会に大きな影響を与えたのが、クムラン教団です。クムラン教団の救い主は「義の教師」です。クムラン教団は、祭司たちや長老たちによって苦難を負わされ、殺れる義の教師を主と仰ぐ信仰でした。福音書の著者ヨハネは。自分たちが信じ告白するイエス・キリストは、クムラン教団の義の教師とは違うことを明確にしなければならないと思っていました。ヨハネ10章18節に「だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることができ、それを再び受けることをできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」とあります。良い羊飼いは、義の教師と違って、カロス、魅力的な、人々に感動を与え、喜んで、羊のために命を捨てます。
14節に「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。」とあります。この「知る」はギリシャ語では「ギノスコー」、ヘブル語では「ヤーダー」で「アダムは妻エバを知った。彼女は身ごもって」の「知る」です。名前を知る、顔を知っているというような形式的、外面的に知るではなく、その人の存在全体を知ることを意味します。つまり、良い羊飼いはその人の全存在を知り、受け入れる。
羊飼いは、昼間は羊を牧草のある場所に導き、夕方になると羊を連れて、帰って来て、囲いに入れます。囲いには、他の羊飼いの羊も一緒に入っています。朝になると、自分の羊の名前を呼び、自分の羊を集め、牧場に連れて行きます。北海道の焼尻島に日本人でただ一人の羊飼いがおられるそうです。彼は自分の羊を知り、それぞれの羊の個性、性格を知っているそうです。一匹一匹の羊の性格を知っています。知らなければ羊飼いにはなれないそうです。
ガラテヤの信徒への手紙4章4節に、「あなたがたは、以前は神々の奴隷になって仕えていたが、今は神を知っている、いや、むしろ神に知られている」とあります。この「知られる」は「長年手に入れたいと思いながら手に入らなかったものを手に入れる」ことを意味します。つまり、「承認される、愛される」という意味です。神はわたしたちの存在を理解し、承認し、肯定し、受け入れ、愛するというのです。
栢木哲夫先生は「手に入れたいと思いながら手に入らないもの、それは、自分の気持ちが分かってもらえることである。ホスピスに来られる方の苦しみは、病気の苦しみに増して、長年の苦しめや痛みが、誰にも理解されないことです。ホスピスでは、死が迫っている人の深い悲しみと孤独を親身になって、言葉にならない嘆きに耳を傾け、コミュニケーションをとり、苦しみを共有します。その姿勢が、患者をして自分の苦しみと辛さが理解されているという思いになると言われます。
パウロは「今は神を知っている。いや、むしろ神に知られている」と言っています。言葉を換えて変えれば、存在は肯定され、承認され、受け入れられ、愛さているとなります。イエスは、十字架につけられ、死に渡されるという経験されました。それはわたしたちの悩みと苦しみとを理解し担うためです。イエスの心にわたしの心を合わせたいと思います。それが肯定となり、希望となり、救いになるというのです。イエスの究極的な肯定に与りたいと思います。