与えられた テキストはイザヤ書6章1-8節のイザヤの召命体験です。神秘的な表現で、少し理解し難いところがあります。神殿の礼拝堂の祭壇には、六つの翼を持ったヘビの彫刻が置かれ、香をたき、その煙と香が漂っていました。そこに陽の光が射し込み、幻想的世界を造り出していました、イザヤはその幻想の中で、神と出会いを体験しました。
5節に「わたしは言った。『災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者、しかも、わたしの目は、王なる万軍の主を仰ぎ見た。』とあります。「災いだ。わたしは滅びる」は、「ああ、わたしはもう駄目だ。」という意味です。自分の無力さと罪深さに絶望しているのです。そのとき、炭火を挟んだひばしをもったセラピムが飛んで来て、イザヤの唇に触れました。「セラピム」とは「セラフ」の複数形で、ヤハウェに仕える、六つの翼を持つ天使のことです。7節に、「見よ、これがあなたの唇に触れたので、あなたの咎は取り去られ、罪は赦された。」とあります。イザヤが主なる神によって罪を赦されたという経験をされたというのです。
1節に「ウジヤ王が死んだ年のことである」とあります。ウジヤ王はユダ国を42年間治めました。イザヤはウジヤ王を敬愛し、希望をおいていました。同じ年、アッシリア帝国では、ティグラト・ピレセル3世が即位し、ユダ国を脅し始め、社会情勢は不安定になりました。次のアハズ王は、「主の前に悪を重ねた」と言われているように、ユダ国を平安に納めることはできませんでした、イザヤはアハズ王に異議を唱え、度々警告しました。そのためにアハズ王から迫害を受け、苦しめられ、希望を失いました。イザヤは厳しい状況の中で、神に出会う体験をしました。
ルカ福音書5章には、イエスとペトロの出会いが記されています。その夜、ペトロたちは漁に出ましたが、雑魚一匹も獲れず、失望落胆し、あきらめて、港に帰ってきました。そして、破れた網を直していました。そこにイエスが現れ、「もう一度舟を出しなさい」と言われました、5節に、「シモンは、『先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう』と答えた。」とあります。ペトロは舟を出して、網を降ろすと、おびただしい魚が獲れたといいます。そのとき、ペトロは「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です」と言って、イエスの足下にひれ伏したといいます。ドイツの宗教学者ルドルフ・オットーは、「ヌミノーゼと言って「人間が聖なる神の前に立つと、畏れ、畏敬の感情を持つ。同時に、価値観の転換、生き方の転換が起こり、生きる使命と目的が与えられる」と言います。ペトロもイザヤも、イエスに、神に出会い、古い自分にこだわらない、新しい存在に変えられる経験をしたのです。二人は汚れた罪深い存在であることを認識させられますが、同時に、きよめられ、愛され、許され、「良し」という「神の肯定」を与えられる経験をしました。
イザヤ書6章7節に、「見よ、これがあなたの唇に触れたので、あなたの咎は取り去られ、罪は赦された。」とあります。8節には「そのとき。わたしは主の御声を聞いた。『誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。』 わたしは言った、『わたしがここにおります。わたしをお遣わしください、』」とあります。イザヤの神の召命体験です。イザヤの召命は、「神の言葉を聞く」ことで始まっています。7節までは、「見よ、見た」が強調されていますが、8節からは「聞く、聞いた」が強調されます。ローマの信徒への手紙10章17節に、「信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まる。」とあります。「信仰は聞くことにより」の「より・エク」は、「源、原因、起源」という意味します。つまり、主の言葉を聴く、聞くことが信仰の源、起源であるというのです。
イザヤは、「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか」という神の言葉を聴きました。この言葉は、礼拝の中で語ったのですから、誰かを特定して語ったのではなく、誰もが聴いていました。その中で、イザヤは自分に向けられた神の言葉として主体的に聞くことができ、応答することができました。また、祭司が語った人間の言葉を神の言葉として聴いた。そこに信仰の本質があると思います。「誰を遣わすべきか」は、意訳すると「わたしは誰かを遣わしたい」となります。「誰が我々に代わって行くだろうか」は、「誰かわたしたちのために行ってくれませんか」となります。つまり、神の呼びかけです。イザヤは、自由な中から神の呼びかけに、主体的に応答しました。それが本来の信仰だと思います。「我々に代わって」の「我々」は、複数形になっていますが、神の尊厳をあらわす表現で、本来は「一人の神」です。「代わって」は、ヘブル語で「ラメダ」と言い、「for ~ため」という意味です。言い換えれば、「わたし、神のために」となります。つまり、生きる究極的な目的と使命を意味します。「わたしをお遣わしください」は、イザヤが新しい存在になる、立ち上がって、新しい一歩を踏み出すこと、イザヤの生きる使命の発見を意味します。
夏目漱石が大正3年に学習院大学で行った講演の中で、「わたしはこの世に生まれた以上何かをしなければならないと思っていたが、実際は、何をして良いのか少しも見当がつかなかった。わたしはちょうど霧の中に閉じ込められた孤独の人間のように立ち竦んでしまった」と、「あたかも嚢の中に詰められて、出ることのできない人のような気持ちがしています。わたしは手にただ一本の錐さえあれば、どこか一カ所突き破って見せるのに、と思っていたが、見つからないで焦っていた。その錐は人から与えられることもなく、また自分からも発見する訳にも行かず、ただ、腹の底では、この先自分はどうなるだろうかと思って、人知れず憂鬱な日を送ったのであります。」と語っています。漱石ですから、人生の目標や使命を見いだせないで苦しんでいる、嚢の中に閉じ込められた閉塞状態を打ち破る錐を探していた。真実だろうかと思います。でも、誰でも苦悩する問題です。神の言葉は、わたしたちを閉じ込めている袋を打ち破る錐ではないかと思います。神の言葉を自分に向けられた言葉と聴き、自由な中で、主体的に聞き、使命を見出し、新しい命を与えられたいと思います。