2024年11月3日「共に支え合い、共に生きる」申命記26:1-15 ルカ10:25-37 

モーセがイスラエルの人々を集めて行なった信仰告白です。5-11節に、「あなたの神、主の前で次のように告白しなさい。『わたしの先祖は滅びゆく一アラム人であり、わずかな人を伴ってエジプトに下り、そこに寄留しました。しかし、そこで、強くて数の多い、大いる国民になりました。エジプト人はこのわたしたちを虐げ、苦しめ、重労働を課しました。わたしたちが先祖の神、主に助けを求めると、主はわたしたちの声を聞き、わたしたちの受けた苦しみと労苦と虐げを御覧になり、力ある御手と御腕を伸ばし、大いなる恐るべきこととしるしと。奇跡をもってわたしたちをエジプトから導き出し、この所に導き入れて乳と蜜の流れるこの土地を与えてくれました。わたしは、主が与えられた地の実りの初物を、今、ここに持って参りました。わたしは聖なる献げ物を残らず家から取り出し、すべてあなたが命じられた戒めに従って、レビ人、寄留者、孤児、寡婦に施し、あなたの戒めからはずれたり、それを忘れたりしませんでした。』」とあります。モーセは、貧しく、寄留者であったイスラエルの人々が生きることができたのは、神に助けを求めると、神が憐れみと恵みとを与えてくださったからである。また、得た富みを神の賜物、神の恵みと受け入れ、レビ人や寄留者、孤児、寡婦に与えたからであると言います。レビ人や寄留者、孤児、寡婦は貧しく、弱く、小さい存在です。その小さくて弱い者を支え、分け合い、共に生きたから、イスラエルの人々は生きることができたと告白しています。イスラエルの人々があの厳しい環境の中を生き抜くことができたのは、神に愛され愛し、神に赦され赦したからであるというのです。

 かつて、作家の村上春樹さんがエルサレム賞を受賞され、授与式で、イスラエルとパレスチナ自治区とを「硬い高い壁と卵」に譬え、スピーチされたことがありました。「もし高い壁と、そこに投げつけられ壊れた卵があるなら、たとえ高い壁がどんなに正しく、卵がどんなに間違っていても、わたしは卵側につく」と言われました。イスラエルとイスラムには古代時代から深刻な問題を抱えています。イスラエルは軍事力で、パレスチナ人を高い壁の囲いに押し込めました。壊れた卵はパレスチナ暫定自治区の人々を想起させます、同時に、モーセがイスラエルの人々に「戒めに従って、レビ人、寄留者、孤児、寡婦に施しなさい」と勧告したモーセの言葉を思い起こします。御言葉は現実の社会の中で和平を生み出すことを信じて祈らなければとおもいます。

パウロはコリントの教会に、迫害と貧困の中で困窮しているエルサレム教会に献げものをして欲しいと要望しています。その証としてマケドニアの教会の信仰を挙げています。マケドニア教会はパウロの伝えるイエス・キリストの十字架と福音を信じ受け入れました。フィリピ2章6節以下に。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで。そ十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。」とあります。マケドニアの教会の信仰は純粋で、イエスを一心に信じ、十字架のイエスのように人を愛し、自分たちよりも貧しい人々に、自分たちよりも苦難を負っている人に、心を掛けました。パウロは、コリント教会がマケドニア教会の信仰のように生き、献げて欲しいといいます。しかし、命令ではない、律法ではない、福音、神の恵みであるといいます。確かに献げることは、献げる側に負担を掛けます。実際に、コリント教会には、献げることは損失だと反対する者がありました。しかし、パウロは信仰的に見れば・結果的に「富む、豊かになる」と言います。コリントⅡ7:4に、「わたしはあなたがたに厚い信頼を寄せており。あなたがたについて大いに誇っています。わたしは慰めに満たされており、どんな苦難のうちにあっても喜びに満ちあふれています。」とあります。この「満ちあふれる」は、物質的ではなく「信仰的、霊的に富む」ことを意味します。神に対する喜びと感謝が溢れるというのです。真の神に出会い、イエス・キリストを信じるまでは、真に頼りになる存在を知りませんでした。そのために、自分の持ち物や世の物や力を頼り頼んでいました、しかし、イエス・キリストを知ってからは、真に頼れる方を知り、真の平安を得たと言います。

フィリピ4;11に、「わたしは、自分の置かれている境遇に満足することを習い覚えた のです。いついかなる場合にも対処する秘訣を授かったとています。」とあります。この「献げる」は、心が富み、豊かになるという意味です。10節に、「それがあなたがたの益になるからです」とあります。この「益」は、「もうけ、利得」という意味ですが、ヘブル語で「スン・共に、合わせて」と「フエロー・分かち合う」という意味です。つまり、「益になる」は「分かち合って生きる、互いに支え合う」となります。モーセの時代も、パウロの時代も、「分かち合う、共に生きる、支え合う」ことの難しい時代、格差社会です。多くもっている人はさらに豊かになり、貧しい者はますます貧しくる格差社会の中で、人と人との関わりは分断され、自分は自分、自己中心になり、孤立化していきました。言い換えれば、人間不信の社会です。かつて、筑紫哲也さんは「日本の壊・崩壊」と言いました。人の基本的な関わりである「共に生きる、支え合う、分かち合う」が壊れていると言われたのです。それは聖書時代も同じです。福音書にはイエスが食事を共にしている場面がたびたび伝えています。それは「共に生きる、支え合う」が共同体の土台である事実を伝えていると思います。犬養道子さんは、「キリストの福音は、人と神との関係を説くと同時に、人と人との関係、連帯の再構築のプロブラムである、イエスの十字架の死は分かち合い、支え合う世界の創造のためである。また、イエス・キリストは、狭さの打破を示している。視界と心の狭さを果敢に破って広く出ることを奨めている」と言っていました。 マケドニア教会とエルサレム教会の間には、異邦人教会とユダヤ人教会という超えられない壁がありました。しかし、イエスの福音は、その超えられない壁を果敢に乗り越え、広く出ていく力を与えました。ルカ福音書10章25-37節に、「善いサマリア人」の喩えがあります。ある旅人が、強盗に襲われて道端に倒れていました。そこを祭司が通りかかりましたが、見ただけで、反対側を行ってしまいました。次にレビ人が通りました。彼もその人を見ただけで、通り過ぎて行ってしまいました。次に、サマリア人が通りかかりました。彼はその傷ついた旅人を見て、気の毒に思い(スプランクナゼニサイ・腸を痛める)、助け起こし、心を込めて介抱し、宿屋に連れて行きました。サマリア人と倒れているユダヤ人の間には壁がありました。しかし、サマリア人はその壁を超えました。イエスの言葉は壁を超え、広く出る力、共に生きる力、分け合う、支え合う力を生み出す力です。イエスの言葉は共に支え合い、共に生きる力です.