2024年11月24日「共にいる神」出エジプト3:7-20 ヨハネ13;1-12 

葬儀式の祈りの中に「主の御心は奇しくして測り知ることができません。主は人をこの世に生れいでさせて『人の子よ生きよ』といわれます。また人を塵に帰らせて『人の子よ帰れ』と言われます。万物は主のみ旨のまま造られ、かつ保たれていますが、その深いみ旨を知り尽くすことはできません。」とあります。モーセは、人の生涯は人間の思いを遥かに越えた神の御旨にありますから、測り知ることはできないと言います。「波瀾万丈」という言葉がありますが、モーセの人生は試練と苦難の連続の壮絶な生涯でした。ローマの信徒への手紙8章35、37節に「だれが、キリストの愛から、わたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたち愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。」とあります。パウロのキリストを讃えている言葉です、モーセも多くの苦難と艱難とに出会いました。その度に神の導きで打ち勝ち、克服しました。モーセもパウロのように神を讃えています。

モーセが生まれ育ち。活動をしたのはエジプトで、時代は紀元前14、13世紀です。イスラエル人はエジプト人の奴隷でした。或る日、モーセは同胞のイスラエル人が、エジプト人から虐待されているのを見て、激しい怒りに燃え、エジプト人を殺害してしまいました。モーセは人に知られることを恐れ、地中に埋めました。大きな罪を犯しました。エジプトにいることができず、遠く離れたミディアンに逃れて行きました。そこで祭司エテロに助けられ、かくまわれ、エテロから羊を飼う仕事が与えられました。エテロの娘ツィポラと結婚し、子どもも儲けました。寄留者生活でしたが、親子三人で、幸せな生活を送っていました。その時、モーセの人生を大きく変える出来事が起こります。神に出会い、「エジプトに帰り、今の生活を捨て、重労働で苦しめられている同胞のイスラエル人をエジプトから脱出させなさい」と命じられたのです。エジプトと言えば、ピラミッド文明が象徴するように、国力、武力。財力は強力で、大国でした。それに比べてイスラエル人は、奴隷で、国土もない。モーセは亡命者で、ミディアンの寄留者です。エジプト人に比べると、どうしようもない弱小国、弱小人でした。「わたしは何者ですか」と呟いています。「わたしは口べたです。わたしが奴隷で苦しんでいる人々のところに行って、「エジプトから出よ」と言って、何になるのでしょうかと呟き、考えることは悲観的なことばかりでした。モーセは、エジプトの強力な権力と自分の弱小を比較し、無力感にうちのめされ、絶望していました。しかし、神は弱く、悲観的なモーセを、エジプトの王ファラオのところに遣わします。モーセは神の言葉に促されて、エジプトの王の前に立ち、「イスラエルの神は、『わたしの民を去らせ、奴隷の苦役から解放しなさい』と、あなたに伝えよと命じられました」と言いました。すると、王は「お前の言う『主』とは一体何者か。どうしてお前の言うことを聞いて、お前たちを去らせなければならないのか。わたしはお前の言う主など知らないし、イスラエルの人々を去らせることはしないと憤りました。「そのように反逆するなら、煉瓦を焼くわらを自分で見つけよ。しかし、同じ数の煉瓦を焼くのだ」と、更に過酷な重労働を課せたのです。イスラエルの人々は、王ファラオの怒りを知って、「わたしたちを王とその家来たちに嫌わせ、剣を彼らの手にわたして殺させようとしている」と、モーセに激しく詰め寄りました。モーセは窮地に追い込まれ、主のもとに帰って、「わが主よ、あなたはなぜ、この民に災いをくだされるのですか。わたしを遣わされたのは、一体なぜですか。わたしがあなたの御名によって語るため、ファラオのもとに行ったから、ファラオはますますこの民を苦しめています。それなのに、あなたは御自分の民を全く救い出そうとされません」と訴えます。神の言葉に従ったのに、多くの人の反対に会い、事態は悪化するばかりです。神の御旨は一体どこにあるのですか。神の御旨を疑うというのです。

出エジプト記6章1節に「主はモーセに言われた。『今や、あなたは、わたしがファラオにすることを見るであろう。わたしの強い手によって、ファラオはついに彼らを去らせる。わたしの強い手によって、ついに彼らを国から追い出すようになる。』」とあります。この「今や」は、新共同訳では「今や、今こそ」と、協会訳は「今、ついに」と、新改訳は「今に、やがて、そのうちに」と解釈しています。主がモ―セに求めていることは、今は、分からないかも知れないが、必ず、分る時が来る、エジプトの王ファラオに、苦役で苦しんでいるイスラエルの人々を解放るよう求めなさいと命じます。ヨハネ福音書13章7節に「イエスは答えて、『わたしのしていることは、今あなたに分かるまいが、後で、分かるようになる。」とあります。イエスが弟子たちの洗足の場面で言われた言葉です。ルカ福音書18章34節に「12人はこれらのことが何も分からなかった。彼らにはこの言葉の意味が隠されてて、イエスの言われたことが理解できなかったのである。」とあります。神のなさることは、わたしたちの理解を超えています。しかし、時が満ちると、理解できると言います。神はモーセに「わたしは主である。わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブの神(エル・シャダイ・強い者)として現れたが、主(ヤハウェ)というわたしの名を知らせなかった。イスラエルの人々に「わたしは主・ヤハウェである」と言い、勇気づけなさい」と命じました。3章14節に、「神はモーセに、『わたしはある。わたしはあるという者だ』と言われ、また、イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」とあります。3章12節には「神は言われた。『わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。』」とあります。ヤハウェは「あなたと必ず共にある、いる」という意味です。また、「必ず」は「ために」という意味があります。主ヤハウェは生きる意味を与える存在です。ヤハウェの神はどこにいても、共に、存在する、わたしの存在の根拠であるという。6章4―6節に「わたしはまた、彼らと契約を立て、彼らが寄留していた寄留地であるカナンの土地を与えると約束した。わたしはまた、エジプト人の奴隷となっているイスラエルの人々のうめき声を聞き、わたしの契約を思い起こした。」とあります。契約、約束の主、約束を果たす主です。「それゆえ、イスラエルの人々に言いなさい。わたしは主である。わたしはエジプトの重労働の下からあなたたちを導き出し、奴隷の身分から。救い出す。あなたたちを贖う。あなたたちをわたしの民として受け入れ、あなたたちの神となる」とあります。「契約」は「決心、決断」という意味です。約束を果たす主、決断する主です。紅海渡航では、海を二つに裂き、渡らしました。荒れ野では昼は雲の柱になって、夜は火の柱になって,導いてくださいました。モーセの課題は、神の約束を信じ抜くことでした。イエスが「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすればそれらは全て添えて与えられる」という約束を信じて歩めと言われたように、神の約束を信じて、歩んで行きたいと思います。