与えられた手テキストはイザヤ書51章です。バビロン補囚の中で語られたイザヤの言葉です。バビロンのネブカドネツァル王は、エジプトのファラオのネコをカルケミシュの戦いで倒し、南下をはじめ、南ユダを襲い、エルサレムを1年半包囲し、滅ぼします。その時の様子を歴代誌下36章17節以下に「主はカルデア人の王を彼らに向かって攻め上らせられた。彼は若者たちを聖所の中で剣にかけて殺し、若者のみならず、おとめも、白髪の老人も容赦しなかった。主はすべての者を彼の手に渡された。彼は神殿の大小の祭具のすべて、主の神殿の宝物も、王とその高官たちの宝物も残らず、バビロンに持ち去った。神殿には火が放たれ、エルサレムの城壁は崩され、宮殿はすべて灰燼に帰し、貴重な品々はことごとく破壊された。剣を免れて生き残った者は捕らえられ、バビロンに連れ去られた。」と記しています。36章11節以下には、「ゼデキヤは21歳で王となり、11年間エルサレムで王位にあった。彼は自分の神、主の目に悪とされることを行い,主の言葉を告げる預言者エレミヤの前にへりくだらなかった。彼はまた、神の名にかけて彼に誓わせたネブカドネツァル王に反逆し、強情になってその心をかたくなにし、イスラエルの神、主に立ち帰らなかった。」とあります。ゼデキヤ王はバビロンのネブカドネツァルの侵略に抵抗できず、滅ぼされ、皆殺されました。が、生残った者はバビロンに連行されました。ゼデキヤ王は足枷を填められ、連行されました。所謂バビロン補囚です。それは約400年間続いたダビデ王国の終熄と不敗信仰の根拠であったエルサレム神殿信仰の崩壊を意味します。バビロンに連行された者も、残った者も、心に大きな傷を負いました。哀歌4章8節には「皮膚は骨に張り付き、枯れ木のようになった。」とあります。エゼキエル書37章4節には「主はわたしに言われた。『これらの骨に向かって預言し、彼らに言いなさい。枯れた骨よ。主の言葉を聞け。』」とあります。「枯れた骨」と表現しているように、神に選ばれた民という誇りも、生きる希望も意味も失っていました。日本でも、あの戦争で、国家は崩壊し、多く死者、犠牲者を出しました。東京も大阪も焼け野原のように荒廃したそうです。因みに、軍人の死者239万人、戦災犠牲者80万人だそうです。目に見えない心に傷を負った人は数えきれないと思います。終戦後80年、戦争の風化を恐れています。戦後、めざましい発展で、戦争責任、敗戦の悲惨は遠い昔のことになり、あの苦難はなかったかのようです。
イスラエルの人も戦争、敗戦、捕囚という苦難と試練を体験しました。 哀歌1章3節に、「貧苦と重い苦役の末にユダは補囚となって行き、異国の民の中に座り、憩いは得られず、苦難のはざまに追い詰められてしまった」とあります。20節には「ご覧ください。主よ、この苦しみを。胸は裂けんばかり、心は乱れています。わたしは背きに背いたのです。外では剣が子らを奪い、内には死が待っています。」と言っています。22節には「敵の悪事が御前に届きます。あなたの懲らしめを受けますように。あなたに背いたわたしが、こんなにも懲らしめられたように。わたしはこうして呻き続け、心は病に侵されています。」とあります。イスラエルの人々の神を裏切った不信仰の傷は何年経っても癒されません。子どもたちは飢餓で死んでいく、大人は心を病んでいる。生きていてもしょうがないと呟き、絶望しています。
イザヤ51章1節には「わたしに聞け、正しさを求める人、主を尋ね求める人よ。」とあります。4節には、「わたしの民よ、心してわたしに聞け。わたしの国よ、わたしに耳を傾けよ。」とあります、7節には、「わたしに聞け、正しさを知り、わたしの教えを心におく民よ。」とあります。「わたしに聞け」の「わたし」は「ヤハウェ・主」です。「わたしはあるもの、わたしはあなたと共にある。わたしは必ずあなたと共にいる主」という意味です。イザヤはバビロン捕囚の人々に神の言葉を語るようにと命じられ、語ります。12、13節に、「わたし、わたしこそ神、あなたたちを慰めるもの。なぜ、あなたは恐れるのか、死ぬべき人、草に等しい人の子を。なぜ、あなたは自分の造り主を忘れ、天を広げ、地の基を据えられた主を忘れ、滅びに向かう者のように、苦痛を与える者の怒りを、常に恐れてやまないのか。」とあります。南ユダ王国のゼデキヤ王は、窮地に立たされると、バビロンに援助を求めて走り、都合が悪くなると、エジプトに使いを出し、援助を求めました。7章4節では、イザヤは、アハズ王に「落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない」と命じています。40章6節には「呼びかけよ、と声は言う。わたしは言う、何と呼びかけたらよいのか、と。肉なる者は皆。草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの、、、草は枯れ、花はしぼむが。わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ.」とあります。
51編2節には「あなたたちの父アブラハム、あなたたちを産んだ母サラに目を注げ。わたしはひとりであった彼を呼び、彼を祝福して子孫をふやした。」とあります。普通は「アブラハム、イサク、ヤコブの」と言うところですが、イザヤは「アブラハムとサラ」を並べています。そこに意味があります。アブラハムとサラは、カルデアのウルの出身です。カルデアは、後にバビロンになります。つまり、バビロンはアブラハムの故郷です。アブラハムは「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしの示す地に行きなさい」という神の言葉を聞き、神の言葉に従って、旅立ちました。バビロンはアブラハムの旅立ちの場所、その意味では、アブラハムの原点です。アブラハムを信仰の祖とする人にとって、、バビロン捕囚は、辛く悲しい出来事ですが、信仰の原点に戻された出来事です。捕囚という苦難を通して、信仰の原点に立ち返され、新しい旅立ちを促されたのです。
51章2節に「わたしはひとりであった彼を呼び、彼を祝福して子孫を増やした。」とあります。原文では「ひとり」が文頭にあり、「ひとり」を強調しています。アブラハムの孤独な人生を思い起こさせます。父のテラは死に、サラも亡くなり、ロトは滅び、ハガルは追い出され。アブラハムの人生もひとり孤独な人生であったというのです。しかし、預言者イザヤは、それでもって、アブラハムは心弱くすることはなかったと言います。なぜなら、神の約束を信じ、そこに希望をおいたからだと言うのです。ヤッハウェの神は、あなたと必ず共にいる神です。神に従うために、ひとりにならなければならないことがあります。アブラハムもそうでした。しかし、恐れることはない。「わたしはある、あなたがどこに遣わされようと。必ず共にいる神」です。言い換えれば、バビロン捕囚のように生きる意味や目的を失い虚無や絶望に陥るとき、生きる意味と目的を与えてくださいます。11節に「主に贖われた人々は帰って来て、喜びの歌を歌いながらシオンに入る。頭にとこしえの喜びをいただき、喜びと楽しみを得、嘆きと悲しみは消え去る。」とあります。「シオン」とは「エルサレム」のことです。ネブカドネツァルによって徹底的に破壊されたそこに喜びの歌を歌いながら、帰って来る。今悲しみと嘆きしかないが、神は、嘆きと悲しみのシオンを、喜びと楽しみと讃美のシオンに変えてくださる。 神の約束を信じて、希望を持って待ちたいと思います。