希望の光であるキリストの誕生を喜び、感謝して迎えました。教会暦では、1月6日の公現日までクリスマスの季節で、マタイ2;1-12。東の国から来た占星術の学者たちが、星に導かれ、幼子イエスが母マリアと共におられる馬小屋に到着しました。彼らはひれ伏して幼子を礼拝し、宝の箱を開け、黄金、乳香、没薬を取り出し、献げました。そして、別の道を帰って行きました。福音書はその後占星術の学者たちについて。一言も触れていません。クリスマスで重要な役割を果たしているのですから、彼らのその後について一言触れても良いと思います。しかし、全く触れていません。彼らがイエスに宝物を献げるために生きて来た事実を強調するためでしょうか。イエスに献げることが彼らの生涯の目的であったことを伝えるためでしょうか。ローマの信徒への手紙12章1節に「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによって勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」とあります。占星術の学者たちは、自分の体を、自分の全てを神に献げることが人生の究極的な目的であるというのです。
11節に「家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた、彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。」とあります。この「宝の箱」は「背嚢、リュックサック」のことです。旅に出るとき、いつも肌身離さず。身に着けていた袋のことです。「宝物」と言いますが、彼らが日常使っていた占星術の道具ではないかと思います。占星術の学者ですから、占い師、魔術師、天文学の専門家です。高名な占い師であったかもしれません。宝物と言いますが、実際は、彼らのライフワーク、研究、商売道具だと思います。その意味では、無くてはならない物です。言い換えれば、彼らの存在そのもの、彼らの命そのものを献げたのです。彼らは主イエスに献げる人生を選んだのです。
ヴィクトール・フランクルは、アウシュビッツの強制収容所に入れられました。囚人は着ている物、履いている靴はぎ取られ、髪の毛も切られ、メガネも、歯にかぶせて金まで取り上げられました。フランクフルは奪い取られても冷静に受け入れていました。しかし、彼には許せないことがありました。それはこれまで研究してきた論文が焼き捨てられることです。心理学精神科医として、長年研究してきた彼独自のログセラピーという心理療法の論文です。「わたしの精神的な子ども、生きる目的」と言っていた論文です。奪われるくらいなら、死んだ方が良いと思っていました。彼は看守に「これだけは見逃して欲しい、自分のための論文ではなく、将来人類のためになるから」と看守に懇願しました。しかし、看守は「甘えたことを言うな」と取り上げ、破棄してしまったのです。彼は生きている意味を失い、絶望しました。しかし、不思議なことが起こりました。彼は自分の着物は奪われ、代わりに、先にガズ室に送り込まれた囚人が着ていたぼろぼろに擦り切れたコートが配られました。そのコートのポケットに手を入れると、一枚の紙切れ、誰が読んだか分からない破り取った聖書の一部です。占星術の学者が、宝物をイエスに献げるところです。イエス様が自分を十字架に付けた兵士のために、十字架に自らを献げた部分です。フランクルの人生の見方に変革が起こりました。論文が無くてならないものではなく、この世の情況がどのようであっても希望を失わないで生きていくことに意味があると信じました。絶望の中で、神はひとり子を献げるクリスマスを経験するのでした。論文は奪われたのではなく、神に献げたと受け取り直すことができました。
「神」ですが、日本語では、神という言葉は「上」を表わす「カミ」です。その「神」は絶対的な権威をもって人間を支配するものです。「カミ」と「オオカミ」の「カミ」は同じ語源であると言われます。近寄りがたい、恐れられる存在です。ですから、捧げ物、供え物をして、人間に危害を加えないようにしてもらいます。人間は神に献げ物をしなければならない。神は捧げ物を受ける神です。しかし、イエスの神は献げることを要求しません。逆です。独り子を人間のために献げる神です。フランクルは、その神の心に応えたい、神に応えることが生きることの意味、目的だと思ったのです。
俳人の玉木愛子さんの作品に、「目をささげ、手足をささげ、クリスマス」という句があります。目を、手足を献げというのは、彼女が16歳のときにハンセン病にかかり、その病気のために眼球を抜き、手と足を切断しました。普通なら「奪われた」と言うところを、信仰者の玉木愛子さんは「ささげた」と言うのです。誰にもできることではないと思いますが、考えさせられます。カウンセラーの賀来周一さんは、「恐るべき積極性だ。この積極性は一種のユーモアさえ感じる。イエスを信じる信仰の贈り物として、生きる勇気と希望が与えられる」と述べています。玉木愛子さんの俳句に「信ずれば 天地のもの 暖かし」という句があります。ハンセン病は、当時治療薬もなく、感染を恐れ、隔離政策で、家族も、全てを捨てて、療養所に送られました。玉木愛子さんは、16歳から82歳、66年間療養所生活でした。彼女の身を置くこの世は非情で、冷酷そのものでした。しかし、信仰をもって眺める天地は暖かいというのです。フランクルには「それでも人生にイエスという」という言葉があります。本来現実は「否」ですが、信仰の目を持って見れば、「然り」と捉えさせます。キリストは、ことの成り行きはどうであれ、最後は「然り」と結んでくださる。ローマの信徒への手紙8章28節に「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くことを、わたしたちは知っています。」とあります。神は万事が益としてくださる。言い換えれば、神は「然り、良し」の絶対肯定を与えてしてくださるとなります。
12節に、「ところが、『ヘロデ王のところへ帰るな』と夢でお告げがあったので、別の道を通って、自分たちの国へ帰って行った。」とあります。ヘロデ王の支配する世界は、力が支配する世界です。イエスと出会った者はヘロデ王の支配する力、権力の世界に戻るなというのです。
マルコ福音書10章43節に、「しかし、あなたの間ではそうではない。あなた方の中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」とあります。イエスは、わたしたちの生きる世界は、支配者と見なされている人々が支配し、偉い人たちが権力を振いるっている世界だ、しかし、あなた方の間では、そうであってはならい。あなたがたの中では仕える者になり、僕となりなさい、仕える者になることを喜びとし、生き甲斐とすると言います。
ローマの信徒への手紙8章37節に、「これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛する方によって輝かしい勝利を収めています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所いるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト;イエスよって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです、」とあります、信仰の勝利を信じて、全てを委ねていきましょう。