2025年1月12日 「極めて良かった」 マタイ3;13-17 創世記1;23-31 

イエスは洗礼を受けるため、生まれ育ったガリラヤのナザレからヨルダン川で洗礼活動をしているバプテスマのヨハネを訪ねます。とろこが、ヨハネから「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」と断られます。ヨハネは「神の裁きは避けられない。罪を悔い改めがなければならない」と、悔い改めを迫り,悔い改めた者に、ヨルダン川に身体を沈め、洗礼を授けました。しかし、イエスは神の子であり、罪のないことを知っていましたから、悔い改めのバプテスマを受ける必要はない、逆に、罪人である自分の方が、イエスからバプテスマを受はけるべきだと考えていました。ところが、イエスは「今は、止めないで欲しい。正しいことをすべて行うのは、われわれにふさわしいことです」と言って、バプテスマを強く望まれました。この「正しいことをすべて行う」は、イエスが神の子であるけれど、全ての面で人間と同じであることを強調しています。

ヘブライ人の手紙2章17、18節に、「それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。」とあります。この言葉がイエスにおいて成就したというのです。イエスは、神の子であるけれども、人間と同じ試練、苦しみ、孤独、悲しみを経験しなければならない。それは、が罪を犯したらではなく、罪を犯し苦しんでいる人々の救い、贖いのためです。誰も負わなければならない十字架の苦難 死に に打ち克つ道を示された。マルコ15章33、34節に、「昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時に、イエスは大声で叫ばれた。『エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ』。これは『わが神、わが神、なぜわたしお見捨てにったのですか』という意味である」とあります。イエスは罪を犯していないのに、神に捨てられるという不条理、絶対孤独、虚無、絶望の苦しみを経験しました。コリントⅠ4章7節に「わたしたちは、このような宝を土の器に納めています、この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられてもて見捨てられず、打倒されても滅ぼされない。」あります。パウロはイエスの救いと贖いを「並外れて偉大な力、土の器に納められている宝」と言い、不条理や虚無の苦しみに勝利するといいます。

 マタイ福音書3章16節に、「イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。」とあります。これはイザヤ書63章19節の「あなたの統治を受けられなくなってから、あなたの御名で呼ばれない者になってから、わたしたちは久しい時を過ごしています、どうか、天を裂いて降ってください、御前に山々が揺れ動くように。御業をおこなってくださる」あります。このイザヤの預言の成就です。イスラエルの人々が捕囚で、自由と人権を奪われ、御言葉を聴くことも、礼拝することも、神を信じることもできない苦難と絶望の日々を過ごしていました。そのとき、預言者イザヤは。神が天を裂いて降ってください、山々が揺れ動くように、今天を閉ざしている雲を追い払い、山々が揺れ動くような御業を行ってください、捕囚から解放してください、と祈りました。すると、祈りが聞かれ、黒雲に覆われていた天が二つに割れ、開き、青空がのぞき、日の光が射してきた。今、イエスの洗礼によって、イザヤの預言が成就したというのです。

ヨハネ黙示録のヨハネが、迫害に遭い、パトモス島にある強制収容所に閉じ込められ、真っ暗闇でなにも見えない暗黒に置かれました。そのとき、主に促されて、天を仰いで見ると、開かれた門があったと言います。強制収容所ですから、四方八方塞がれています。すかし、天に開かれた門がある。主イエスは自らの体験から「天が開かれるのを見た。」と言います。信仰には、もう駄目だ、もう終わりだということはない。「万事休す」の向こう側に希望がある。可能性がある、打開の道があると信じます。

16節に「イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた」とあります。イザヤ書42章1節の「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選らび、喜び迎える者を。」のイザヤの預言の成就です。「心に適う」は、「意にかなう、喜びとする」という意味です。「神の意にかなう者」は、「傷ついた葦を折ることなく、ほの暗い灯心を消すことなく、真実をもって道を示す」者のことです。イエスは。どんなに傷ついても、決して捨てません。傷ついた葦に添え木をして大事に用います。消えかかった灯心を消えないように、守り。用います。世の支配者のように権力をもって支配するのではなく、真実と愛をもって仕えます。

イエスは律法学者やパリサイ派の人々から、「あなたは、どうして徴税人や罪人や重い皮膚病の人と一緒に食事をするのか」と批判、抗議されると、「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と応えています。イエスの救い主は優しい、愛の救い主です。

17節、「その時、『これはわたしの愛する子」わたしの心に 適う者』」という声が、天から聞こえた。」とあります。詩編2編7節の「主はわたしに告げられた、『お前はわたしの子、今日、わたしはお前を生んだ。求めよ、わたしは国々をお前の嗣業とし。地の果てまで、お前の領土とする』」の成就で、王の即位式の宣言です。困難な情況の中で即位する王を励ます言葉です、アハズ王が、シリヤ・エフライム連合軍にエルサレムが包囲され、窮地に立たされたとき、林の木のように動揺しました。イザヤは「恐れるな,静かにしなさい。お前はわたしの子である。わたしはお前を産んだ」と神の言葉で、アハズ王を励まし、勇気づけました。その「お前はわたしの子だ。きょう、わたしはお前を生んだ」という言葉がイエスの洗礼で成就したというのです

この「わたしの愛する子」の「愛する」は、「アガパオー」と言い、「肯定する」という意味です。「わたしが『よし』とする」となります。創世記1:31に、「神がお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」とあります。この「極めて良かった」は「神の肯定」です。神は、主イエスを通して「良し」と肯定してくれるのです。「あなたはわたしの愛する子、わたしの意に適う者」と宣告しているのです。

牧師で詩人の河野進氏に「天窓」という詩があります。「部屋が暗いから 屋根に小さい天窓を造った。太陽の光が射し込んで、ふしぎなほど明るくなった。心がうっとうしいとき、祈りの天窓を開こう。天窓とはうれしい名だ」という詩です。誰でも暗い部屋に閉じ込められているような経験は一度や二度あります。難しい人間関係があります。重荷を負い苦しみ、不条理に絶望します。しかし、信仰の天窓を造ると、不思議に明るくなります。「あなたはわたしの愛する子、わたしが生んだ。わたしが『良し』とする」と。イザヤ書43;4「わたしの目にはあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛する。恐れるな、わたしはあなたと共にいる。わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのも。」と。神と御言葉を信じ、確信し、希望を持って生きていきたいと思います。