2025年2月2日 「無くてならぬもの」 ハガイ1;1-15 ルカ福音書10;38-42

ハガイが預言活動したのは、エルサレムの人々がバビロン捕囚から解放され、帰国し、復興の時代です(BC520年頃)。エルサレムの人々は帰国して、戦争と捕囚で破壊されたエルサレムの復興に取りかかりました。しかし、復興をめぐってエルサレムの指導者とハガイの間に大きな隔たりがありました。ハガイの願いは、エルサレム神殿の再建と信仰の再興でしたが、エルサレムの指導者は、国力の発展と経済的な復興でした。1章1節に、「ダレイオス王の第2年6月⒈日に、主の言葉が預言者ハガイを通してユダの総督シュアルの子ゼルバベルと大祭司ヨツァグラの子ヨシュアに臨んだ。「万軍の主はこう言われる。この民は、『まだ、主の神殿を再建する時は来ていない。』と言っている。」とあります。エルサレムの指導者は、神殿の再建の時は来ていないと主張しました。ハガイたちに反対しました。

2節には、「主の言葉が、預言者ハガイを通して臨んだ。『今、お前たちは、この神殿を、廃墟のままにしておきながら、自分たちは板ではった家に住んでよいのか。』」とあります。神はエルサレムの指導者は最も大事ことを後回しにしていると警告しました。3節に「そこで,主の言葉はまた預言者ハガイに臨んだ。4節に、「それで今、万軍の主はこう言われる,あなたがたは、みずから板で張った家に住んでいる時であろうか。」、5節に「それで今、万軍の主はこう言われる、あなたがたは自分のなすべきことをよく考えるがよい。」とあります(協会訳)。あなたがたは自分の家はレバノン杉を張って建てたのに、神殿は廃虚のように、荒れ果てたままにしている。あなたたちは自分の利益、国益には熱心だが、神殿の再建と信仰の復興には無関心である。あなたたちの考え方、価値観を逆転しなければならない。

8,9節には「山に登り、木を切り出して、神殿を建てよ。わたしはそれを喜び、栄光を受けると、主は言われる。お前たちは多くの収穫を期待したが、それはわずかであった。しかも、お前たちが家へ持ち帰る時、わたしは、それを吹き飛ばした。それは、わたしの神殿が廃墟のままであるのに、お前たちが、それぞれ自分の家のために、走り回っているからだ。それゆえ、お前たちの上に、天は露を降らさず、地は産物を出さなかった。」とあります。あなたたちは種を蒔き、走り回っているが、何の収穫も得られいと嘆いている。それは、神殿を廃虚のままにし、信仰の復興も願わないで、自分の家のためにだけ関心をもち、走り回っているからだ。自分のことを第一義にし、神殿の再建と信仰の復興に無関心でいる、それでは、神の祝福は得られない。問題は何を第一義にするかである、という。

ルカ福音書10章38-42節の「アルタとマリアの物語」に「ところが、マルタは接待のことで忙しくして心をとりみだし、イエスのところにきて言った、『主よ、妹がわたしだけに接待を差せているのを、なんともお思いになりませんか。わたしの手伝いをするように妹におっしゃってください。』主は答えて言われた。『マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。マリアは良い方を選らんだ。そしてそれは、彼女から取り去ってはならない。』」とあります(協会訳)。この「多くのこと」は「二義的なこと、非本質的こと」という意味です。「思いわずらう」は「悩む、取り越し苦労する、心を乱す、心が分裂する」という意味です。 イエスは、マルタは非本質的、二義的なことで、思い煩い心を乱している.無くてならぬものは多くはない。いや一つだけである.マリアは良い方を選んだと言われます。信仰的に生きるは、第一義的、究極的本質的、無くてはならぬものを求めて生きることではなでしょうか。

ルカ福音書19:45以下には、イエスがエルサレム神殿の境内で商売をしていた人たちを追い出したことが記されています。平衡記事のマルコ11;15-19、マタイ21;12-17では、「そこで売り買いしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返された。また、境内を通って物を運ぶこともお許しにならなかった。」とあります。この「追い出す」は「外」と「投げる」の二つの言葉でなっています。元来は、「舟が沈没を避け、積荷や人を舟の外に投げる」という意味です。46節に「彼らに言われた。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家でなければならない。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にした」とあります。つまり、本質でないものを捨てることによって、本質を明らかにしなければならない。非本質的もの、二義的ものを捨てることによって、第一義的、本質的なもの大切にし、従っていく。

宗教改革者のカルヴァンは、信仰を難破している船に喩えています。沈没の危機に直面した船が、積荷を海に捨てなければ助からない。荷は大事なものばかりです。しかし、捨てなければ、命を救うことはできません。その矛盾と葛藤の中で道を選んで行く、それが神の信仰であるいう。ローマ12章1-3節に、「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」とあります。「倣う」は「合わせる、妥協する、第一義的なものと第二義的ものとを取り違えること」を意味します。「わきまえる」は「分ける、見分ける」という意味です。第一義的なものとそうでないものを見分けて生きて行くことが、神に喜ばれることであるという。マタイ6章33節に「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これえらのものはみな加えて与えられる」とあります。この「求める」は、「見分ける、別にする」という意味です。第一義、無くてならぬもの、そうでないものを見分ける者は幸いである、と言います。

アメリカの神学者ラインホルド・ニーバーに「神よ、与えたまえ。変わることのできないものを受け入れる冷静さと変えるべきものについて、それを受け入れる勇気とを、この両者を識別できる知恵とを」という祈りがあります。「識別」は「分ける、見分ける」です。無くてならぬもの。第一義的なもの、そうでないもの、とを見分けられる信仰を求めていきたいと思います