与えられたテキストは、モ-セ十戒の安息日の規定「安息日を心に留め。これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない」という安息律法をめぐって、ファリサイ派の人々と激しく論争する場面です。6章11節に「ところが、彼らは怒り狂って、イエスを何とかしようと話し合った」とあります。平衡記事のマルコ3;6。マタイ12;14では、「ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた。」とあります。安息日論争はイエスを殺害するという大変深刻な問題に発展しました。
6章1,2節に、「ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは麦の穂を摘み、手でもんで食べた。ファリサイ派のある人々が、『なぜ、安息日にしてはらないことをするのか』と言った」とあります。この「言う」は「激しく抗議する、文句を言う」という意味です。3節に、「イエスはお答えになった。『ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。神の家に入り、ただ祭司のほかにはだれも食べてはならない供えたパンを取って食べ、供の者たちにも与えたではないか』」とあります。安息日論争の始まりです。イエスの言葉や働きは、ファリサイ派の人々には、彼らの信仰と存在を否定するかのように聞こえたのではないでしょか。彼らは怒りに燃え、イエスを殺そうとしました。しかし。イエスは明晰、豊富で、心優しいので、ダビデ王の故事(サム上21:1-6)を引用し、問題提起をし、ファリサイ派の人々を深く考えさせようとされたのではないでしょうか。9節「そこで、イエスは言われた。『あなたたちに尋ねたい。安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか、命を救うことか。滅ぼすことか』」とあります。人間として、最も大切なものは何か。人生で最も大事なものは何か。イエスは問います。
6節に「また、ほかの安息日に、イエスは会堂に入って教えられた。そこに一人の人がいて、その右手が萎えていた。」とあります。この「いる」は「置く、置かれる」という意味です。彼は「置かれた荷物のような存在」であったというのです。誰も、勿論、ファリサイ派の人々も、この人の存在に気づかず、見えていません。ましてや、この人の右手が萎えている苦しみは理解できません。しかし、イエスは違います。イエスには見えるのです。イエスは人に見えない苦しみが見え、救いと希望を与えます。
7節に「律法学者たちやファリサイ派の人々は。訴える口実を見つけようとして、イエスは病気をいやされるかどうか、注目していた。イエスは彼らの考えを見抜いて、手の萎えた人に、『立って、真ん中に出なさい』と言われた。そして、その人は身を起こして立った。」とあります。この「立って」は信じる、主体的に信じる道を選ぶこと」を意味します。10節、に「そして、彼ら一同を見回して、そして、その人に、『手を伸ばしなさい』と言われた。言われたようにすると、手は元どおりになった。」とあります。この「伸ばす」は「手を差しのべる」という意味です、つまり、「イエスに手を差し伸べる」という意味です。「言われた通りにすると、元に戻った」の「元に戻る」は「神が創造した後、極めて良かった」と言われた、その「極めて良い」という意味です。神はその存在を喜び、肯定してくださるというのです。
フィリピ3章5,6節に。「キリスト・イエスを誇りとし、肉に頼らないからです。とはいえ、肉にも頼ろうと思えば、わたしは頼れなくはない。だれかほかに、肉に頼れると思う人がいるなら、わたしはなおさらのことです、わたしは生またれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非の打ちどころのない者でした。」と告白しています。この「熱心」は「燃える、沸く、熱狂、過激」という意味で、間違えば、燃え盛る炎が他のものを寄せ付けないように、自分の考え以外のものを認めない、他を裁き、他者を否定し、自己を絶対化する罪を犯す。
ローマ2章4節には、「あなたは、神の裁きを逃れられると思うのですか.あるいは、神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことを知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか.あなたは、かたくなな心を改めようとせず、神の怒りを自分のために蓄えています。」とあります。この「かたくな」は「足のかかとや指先にできるタコ」のことで、「固くなって感覚が鈍ること」を意味します。神の豊かな慈愛、寛容、忍耐に心を閉ざしているというのです。パウロは、かつて、ファリサイ派の一員で、熱心さの点では教会の迫害者、律法主義者では自己を絶対化し、人を裁き、人を否定していたと告白していします。ローマ7章24節に「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。」とあります。イエス・キリストは滅びと絶望に導く律法主義の闇から救い出し、導いてくださる、と言います
桃井和馬という写真家がいました。桃井さんは、世界戦争や紛争地を訪ね、戦争の残忍、残酷、愚かを撮り続けています。「世界各地の戦争や紛争を見ていると、その要因の一つに宗教の自己絶対化がある」と言います。パウロも告白しているように、宗教は、絶えず悔い改めがないと、自分は正しいと信じるので、違う信仰を否定し、時には迫害し、滅ぼさないではいられない過ちを犯します。桃井さんは宗教の負の面を指摘しています。自分の宗教が一番正しいという考えは、それ以外のものは間違っている、劣っている、認められないとなり紛争が起こる。宗教を考える時、「自分にとって」が、大切だと言われます。イエスの前で謙遜にされ、肯定され、生きて行きたいと思います。
9,10節に「イエスは言われた。『あなたたちに尋ねたい。安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか、命を救うことか。滅ぼすことか。そして、彼ら一同を見回して、その人に、『手を伸ばしなさい』と言われた。言われたようにすると、手は元どおりになった。』とあります。「元どおりになる」はイエスの絶対肯定です。わたしたちの信仰は、イエスの言葉が真理であると信じることです。イエスの言葉を信じ従っていきましょう。