南ユダ王国の王ヒゼキヤ(BC728-699年)が病気にかかり、それも重病です。1節に、「預言者、アモツの子イザヤが訪ねて来て、『あなたは死ぬことになっていて、命はないのだから、家族に遺言しなさい。』と言った。」と。あります。つまり、死の告知を受けました。すると、2節に、「ヒゼキヤは顔を壁に向けて、主にこう祈った。『ああ、主よ、わたしがまことを尽くし、ひたむきな心をもって御前を歩み、御目にかなう善いことを行ってきたことを思い起こしてください。』こう言って、涙を流して大いに泣いた。」とあります。ヒゼキヤは立派な王でしたが、死の宣告を受けると、大泣きし、喚き、混乱し、悲嘆した。しかし、忠実な信仰者ですから、主に向かって祈ったといいます。そのときの祈り、信仰、嘆き、苦悩が、歌形式で記されています。13節に「あなたはわたしの息の根を止めようとされる.夜明けまでわたしはそれを甘んじて受け,獅子に砕かれるように、わたしの骨はことごとく砕かれてしまう。昼も夜も、あなたはわたしの息の根を止めようとされる。」と。14節に、「つばめや鶴のように、わたしはすすり泣き声をあげ、鳩のように呻く。天を仰いでわたしの目は弱り果てる。」と。15節に、「わたしは心に苦痛を抱きながら、すべての年月をあえぎなら行かねばならないのか。主が近くにいてくだされば、人々は生き続けます。わたしの霊も絶えず生かしてください。」とあります。
ヒゼキヤ王を襲った死の病と、それに伴う恐怖、精神的苦痛、苦難、不安、絶望、祈りが記されています。それらを読みますと。誠に不思議な事実ですが、ヒゼキヤの病が癒され、奇跡的に命は取り止めるのです。4節に「主はこう言われる。わたしはあなたの祈りを聞き、涙を見た。見よ、わたしはあなたの寿命を15年延ばし、アッシリアの王の手からあなたとこの都を救い出す。」と、
17節には、「見よ、わたしの受けた苦痛は、平和のためにほかならない。あなたはわたしの魂に思いを寄せ、滅びの穴に陥らないようにしてくださった。あなたはわたしの罪をすべて、あなたの後ろに投げ捨ててくださった。」とあります。
詩編119編71 72節に「苦しめられたのはわたしのために良いことでした。わたしはあなたの掟を学ぶようになりました。あなたの口から出る律法はわたしにとって、幾千の金銀にまさる恵みです。」とあります。「平和」は「良いこと、幸福、平安、精神的健やか、真理、意味と目的の発見」という意味があります。意訳すると、「わたしの受けた苦しみと苦難は、わたしに生きる意味と目的を見出させました。」となります。ヨハネ福音書9章の「生まれつき目の見えない人の物語があります。弟子たちがイエスに、「この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」と尋ねました。イエスは「本人が罪を犯したからでも。両親が罪を犯したからでもない。神の御業がこの人に現れるためである。」とお答えになった。言い換えると、「目の見えない人の存在の目的と意味が明らかになるため」となります。14節に、「あなたはわたしの息の根を止めようとされる。夜明けまでわたしはそれを甘んじて受け、獅子に砕かれるように、わたしの骨はことごとく砕かれてしまった。」とあります。「骨」は「存在」という意味です。ヒゼキヤ王は、存在が砕かれるほどの「苦痛」に襲われた。その「苦痛」が「神の栄光を証しするため」というのです。言い換えれば、神から与えられた課題、使命であるというのです。
精神科医の島崎敏樹先生は、「苦難は目覚めである。苦難の体験の中で、今まで見えなかった世界が見えるようになり、知らなかった人生の真理を知るようになる。」と言っておられます。浅野順一先生は、「どの人の人生にも、大きいか、小さいかの違いがあるが、穴(苦難)を持っている。隙間風がその穴から吹き込んでくるので、穴を埋めようとする。それはそれで大事なことですが、もっと本質的なことは、その穴を埋めることではなく、その穴(苦難)から見ることである。すると、今まで、見えないものが、その穴を通して見える。どんなに苦しいこと、辛いこと、嫌なことであっても、それを通して見ると、安らかな時、幸福な時、平安な時には解らないことが分かり、知らなかったことを知るようになる。新しい感謝と喜びを感じることができる。苦難は、見えない、知らない真理を与えてくれる。」と言われます。
ヒゼキヤは「顔を壁に向けて大泣きし、主に祈った。」と言います。「壁」は、ヒゼキヤ取り囲んでいる心的状況、実存的状況を意味します。四方八方厚い壁に塞がれ、出口が見つからない、「もう駄目だ、もう終わりだ」と呟いてしまう、厳しい状況の中で、ヒゼキヤは「主に祈った」というのです。天の開いた門である神に向かって祈っています。
音楽家,作曲家、歌手、ザ:フォーク:クルセダーのリーダーでした加藤和彦さんは、「悲しくてやりきれない」という曲を作り、自死されました。「悲しくて、悲しくて、とてもやりきれない、このやるせなさを、だれかに告げようか」。「悲しくて、悲しくて、とてもやりきれない、この限りない、むなしさ、救いはないだろうか。」「このとてもやり切れない思いを告げる者はいない」「この限りない、空しさから救う者はない」と歌っています。加藤和彦さんの夫人の安井かずみさんは、作詞家、歌手、エッセイストでした。安井さんは肺癌を患い、死に向き合う中を生きぬかれました。安井さんはフェリス女学院出身で、教会の礼拝に出席され、洗礼を受けられていたそうです。厚い壁の向こう側に主がいる事実を信じていました。ヒゼキヤも厚い壁の向こう側の主に向かって、祈りました。すると、主は、ヒゼキヤの祈りに対して答えています。この神に祈る、神に繋がることが本質的だと言っています。イエスは「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」と言われた。信じ、受け入れていきましょう。