2025年3月2日 「信じることは力」エゼキエル書37:1-14 コリントⅡ4:7-15

1節「主の手がわたしの上に臨んだ。わたしは主の霊によって連れ出され、ある谷の真ん中に降ろされた。そこは骨でいっぱいであった。主はわたしに、その周囲を行き巡らせた。見ると、谷の上には。非常に多くの骨があり、また見ると、それらは甚だしく枯れていた。」とあります。

3節に、「そのとき、主はわたしに言われた。『人の子よ。これらの骨は生き返ることができるか。』わたしは答えた。『主なる神よ、あなたのみがご存じです。』(4節)「そこで、主はわたしに言われた。『これらの骨に向かって預言し、彼らに言いなさい。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。これらの骨に向かって、主なる神はこう言われる。見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。』」とあります

エゼキエル書は、黙示論的表現、終末論的表現、言葉、信仰論の影響受けていて、その翻訳も解釈も大変難しいという印象をもちます。

7節に「わたしは命じられたように預言した。わたしが預言していると、音がした。見よ、カタカタと音を立てて、骨と骨とが近づいた。わたしが見ていると、見よ、それらの骨の上に筋と肉が生じ、皮膚がその上をすっかり覆った。しかし、その中に霊はなかった。主はこうわたしに言われた。『霊に預言せよ。人の子よ、預言して霊に言いなさい。主なる神はこう言われる。霊よ、四方からき来たれ。霊よ、これらの殺されたものの上に吹きつけよ。そうすれば彼らは生き返る。』」とあります。ゼキエルが、「この骨は生き返ることができますか」と訊ねます。すると、神は、「これらの骨に向かって、『霊よ、吹き来たれ。生き返れ』と呼びかけよ」と命じます。エゼキエルは、命じられたとおり、枯れた骨に向かって、「霊よ、吹き来たれ。生きよ」と言葉をかけました。すると本当に不思議なことですが、バラバラだった骨がつながり、重なり合い、筋と肉が生じ、皮膚がその上を覆った。それに、神の霊、息が吹きかけると、「生きた人間」になった」。彼らは生き返って、自分の足で立って、非常に大きな集団となったと言います。

11節に、「主はわたしに言われた。人の子よ。これらの骨はイスラエルの全家である。彼らは言っている。『我々の骨は枯れた。我々の望みはうせ。我々は滅びる』と。それゆえ,預言して彼らに語りなさい。主なる神はこう言われる。わたしはお前たちの墓を開く我が民よ、わたしはお前たちの墓を引き上げ、イスラエルの地へ連れて行く。わたしが墓を開いて、お前たちを墓から引き上げるとき、わが民よ、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。また、わたしがお前たちの中に霊を吹き込むと、お前たちは生きる。

イスラエルの人々は、バビロン戦争で敗れ、エルサレムや町々は破壊され、虐殺され、戦死しました。生き残った者は、捕囚民としてバビロンに連行され、収容生活した。イスラエルの人々は不条理な人生に絶望しました。補囚の地バビロン生活に全く希望を見出せず、絶望していまをした。エゼキエルは絶望の民を「枯れた骨」と言います。「枯れた骨」が神の霊を受けると、生き返って自分の足で立つ者に変えられる。死人のように絶望していた者が、神に出会い、絶望を超えて新しい存在に変えられ、永遠の希望に生きる者になったのです。

コリントの信徒への手紙Ⅱ4章16節に、「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新しくされていきます。」とあります。この「外なる人」の「外なる」は「外側、外面、精神に対する肉体、身体」という意味です。「衰える」は、「腐る、破滅する、駄目になる」という意味です、「内なる」は「内側、神の霊を受ける部分、神と繋がるところ」という意味です。外なる人は腐る、滅びる。しかし、神と繋がる人は新たにされる。

コリントの信徒への手紙Ⅱ4章7-9節に、「わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために、わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打倒されても、滅ぼされない。」とあります。 パウロは「わたしたちは土の器に過ぎない存在ですが、内側に並大抵ではない力をもっている」と言います。また、「力、デュナミス」についって、「十字架の言葉は、滅んでいく者とっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力」と言っています。

詩人の高見順は「われは草なり」という詩の中で「神の力」を「神の希望」と言います。「われは草なり、伸びんとす。 伸びられるとき 伸びんとす。 伸びられぬ日は 伸びぬなり 伸びられる日は 伸びるなり。われは草なり 緑なり、全身すべて 緑なり。毎年変わらず 緑なり 緑のおのれに あきぬなり。われは草なり 緑なり 緑の深きを願うなり。」。

わたしたちはただの草にすぎない。しかし、そうだからと言って、腐らない。美しく咲く花と比べて、落ち込まない。豊かに実をつける樹と比べて、自分を卑下することのないように。ありのままの自分といつも新しく出会い、その自分をいとおしんでいく。

「ああ 生きる日の美しき、 ああ 生きる日の楽しさよ。 われは草なり 生きんとす。 草のいのちを生きんとす」。世の中は、自分の思うままにならないことが多い。楽なことよりも、辛いことの方が多い。しかし、草である自分に対して優しく、草として生きる自分をいとおしく思う。他と比べるのではなく、わたしはわたし、人は人」として、他人と同じにならなくてもいい。自分を受け入れ、神の絶対肯定を信じていく。もし他人が皆、自分よりも輝いて見え、自分が惨めに思える時、外なる人は衰えていくとしても、内なる人は日々新たにされていきます。御言葉を信じていく。この御言葉に支えられて、日々新しくされて、互いに励まし合い、支え合って歩んでいきましょう。