2025年3月16日 「神の栄光のため」マタイ12:22-32 

悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人が、イエスのところに連れられて来て、イエスにいやされると、ものが言え目が見えるようになった。群衆は皆驚いて、「この人はダビデの子ではないだろうか」と言った。それを見ていたファリサイ派の人々は穏やかにしていられず、「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出すことはできない。」と言った。イエスは彼らの考えを見抜いて、「サタンがサタンを追い出すなら内輪もめが起こり、分裂し、どんな国でも家でもなりたっていくだろうか。」と言って、サタン論争を起こし、真の救い主を明確にしようとしました。悪霊は、人間関係の中を生きる存在です。悪霊は人に取りつき、人の目を見えなくし、人の口を利けなくし、聞えなくし、他者を喪失させ、自己を殻に閉じ込め、孤立させます、また、人は神に創造された存在ですから、神と深い関係の中を生きる存在です。悪霊は人間を創造主なる神に敵させ、神に対立させるというのです。悪霊は、悪魔とも訳されています。マタイ福音書の「誘惑を受ける」で、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて,「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう。」と言いま。この「拝む」は「仕える、服従する」という意味です。悪魔に服従し仕えるなら、世の繁栄と栄華を与えるというのです。

それに対して、イエス「異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そううであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上にいたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく、仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」と言います(マタイ20;25-28)。イエスがサタン、悪魔の誘惑に勝利された信仰を明らかにしています。

ヨブ記には誘惑する者サタンが、「地上にヨブほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪をさけて生きている。」と言います。更に、サタンは病気で苦しむヨブに向かって、「病気を治すこのできない神など、信じていても仕方がないのではないか。何の利益ももたらせない神なら、捨てなさい」と言います。神への信仰を迷わせ、捨てさせるのがサタンです。悪魔、悪霊です。ガラテヤ1;10に「こんなことを言って、今わたしは人に取り入ろうとしているのでしょうか。それとも、神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、何とかして人の気に入ろうとあくせくしているのでしょうか。もし、いまなお人の気に入ろうとしているなら、わたしはキリストの僕ではありません。」とあります。この「取り入る」は「喜ばれる」と言う意味です。パウロは、「もし、今なお人に喜ばれようとしているなら、わたしはキリストの僕ではありません。」と言います。

ローマ15:1-3に、「わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担であり、自分の満足を求めるべきではありません。おのおの善を行って隣人を喜ばせ、互いに向上に努めるべきです。キリストは御自分の満足はお求めになりませんでした。」とあります。「自分が満足する」は、言い換えれば、「自分を喜ばす」です。イエスは自己満足させること、自分を喜ばせることはなかったというのです。フィリピ2;6に「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようと思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。」とあります。「自分を無にする」は「自分を明け渡す、空にする」という意味です。「僕」は「仕える者」です。「人の子は仕えられるためではなく、仕えるために、また、多くの人の贖いとして自分を献げるために来た」と告白している。告白どおり生きられました。悪魔とは正反対の生き方をされました。

マタイ12;29に、「まず強い人を縛り上げなければ、どうしてその家に押し入って、家財道具を奪い取ることができるだろうか」とあります。「強い人」は「悪魔の頭ベルゼブル」のことです。「縛り上げる」は「戦いに勝利する」という意味です。イエスは荒れ野の誘惑で、悪魔に勝利しました。「神の口からでる一つ一つの言葉でサタンに打ち勝ったというのです。神への信仰によって勝利したのです。 

28節に「わたしは神の霊で悪霊を追い出している」とあります。「神の霊」の「霊」は「プニューマ」と言い、受けるとデュナミス・神の力が与えられることを意味します。神の力によって、悪霊に勝利を得るのです。

「家財道具を奪い取る」の「家財道具」は「悪霊の洗脳によって自己中心になっている人間、目に見えることだけに固執する人間」を意味します。「奪い取る」は「救う」です。つまり、イエスは自己中心の罪人を罪から解放する。ヨハネ福音書16章33節は、「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」とあります。イエスは、自己中心にさせる悪霊に既に勝った。それを信じる者に、勝利を与えることができるのです。

31節に、「人が犯す罪や冒瀆は、どんなものでも赦されるが、霊に対する冒瀆は赦されない。」とあります。この「霊」ですが、ヘブル語では「ネシャーマー・息」で 創世記2章7節に「神が土の塵からアダム・人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。アダムはこうして生きる者となった」とあります。「命の息」は、人間の存在の根源、人間にとってなくてならないもの表現します。言い換えれば、人間を根源的に生かしている希望、霊を意味します。神の息、希望と慰めはなくてはならない、人生の根源だと言うのです。

親しくお交わりをいただいた牧師が召されました。牧会されていた教会にあてた最後の手紙を書かれました。「神様できることでしたら、再びこの私を教会に戻してください。もう一度、みんなんと一緒に働けるようにしてください。しかし、あなたの御心のままになさってください。私はこれからまた、病院に戻りますが、これもあなたの与えてくださった時として、あなたの御心を知る機会にしてください。良いと思われることも、悪いと思われることも、すべてあなたの手の内にあると信じます」と書いてありました。彼は、人間は最後の最後まで勇気と希望を与える存在である事実を残してくださいました。「あなたがたには、世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている。」この御言に支えられて、感謝と喜びを携えて歩んでいきましょう。