パスカルのパンセの中に、「人間は一本の葦にすぎない、自然の中でいちばん弱いもの。だが、それは「考える葦である」という言葉があります。パスカルは幼いときから病弱で、青年時代には。何度も重病に冒され,39歳で生涯を閉じました。その生涯は痛みとの戦いでありました。それだけにパスカルの「人間は一本の葦にすぎない、しかし、考える葦である。」という言葉に多くの者が共感する。
この「人間は考える一本の葦である」とい言葉は、どこから生まれたのか。いろいろな学説と議論があります。パスカル研究者の田辺保先生は、イザヤ書42章が深く関わっていると言われます。3節に、「傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく、裁きを導き出して、確かなものとする。」とあります。パスカルは病弱で、痛みと苦しみとの戦いの生涯を送り、自分は正に傷ついた葦である。しかし、神はその弱い葦を折ることなく、守ってくださるという神の真実を信じていると言っています。
4節に「暗くなることも、傷つき果てることもない、この地に裁きを置くときまでは、島々は彼の教えを待ち望む。」とあります。「傷ついた」と「暗くなる」という言葉は、60年も続いているバビロン捕囚を意味します。イスラエルは小国で、大国バビロンが侵略し、BC587年に滅亡しました。当時の王ゼデキヤは、自分の子供たちは殺され、両眼は潰され、青銅の足枷をはめられ、捕囚民と共に、バビロンに連行されました。捕囚の始まりです。それから60年も、捕囚生活は続き、イスラエルの民は疲れ果て、未来は閉ざされ、精神的に退廃していきました。その姿は、まさに「傷ついた葦」、「暗くなっていく灯心」でありました
1節に「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ、彼は国々の裁きを導き出す。彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。彼は傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく、裁きを導き出して、確かなものとする」とあります。この「わたしの僕、わたしの支持する者」が具体的には誰のことか。個人を指すのか、イスラエルを指すのか、議論のあるところです。しかし、どちらにせよ、この言葉を聞いた人々の心には、確かな希望が芽生えてきました。彼らは今にも折れそうな、傷ついた葦であり、風前の灯火のように弱り果てていました。同時代の預言者エゼキエルは「枯れ果てた骨」と表現し、精神的にも身体的にも退廃と絶望の中にありました。特に彼らを苦しめたのは、苦しみに目を向け、耳を傾けてくれる者はいないという孤立感でした。しかし、イザヤは、孤独と絶望に苦しむイスラエルの人々の苦悩を知り、彼らを慰める神は存在すると語りました。
イスラエルの歴史には、このように「傷ついた葦を折らず」とか、「暗くなった灯心を消すことなく」とか、傷ついた者、弱さを抱えた者を支える神の言葉を語る者はいませんでした。アモス、ホセア、ミカという預言者は、神の裁きを免れる者は一人もないと語り、悔い改めを迫りました。捕囚前の預言者はイスラエルの人々の責任を厳しく告発しました。イスラエルの人々は彼らの言葉を受け入れることはできませんでした。しかし、彼らは捕囚の苦難の中で預言者イザヤの言葉を思い起こし、これまでの預言者とは違った言葉、裁きではなく救いと赦しを告げる言葉に出会うのでした。イザヤは街頭で人々に向かって叫び、声を張り上げることはありませんでした。逆に、傷ついた葦を折ることはない、消えかかった灯心を消すことはないと心の琴線に触れるようにな仕方で語りかけるのでした。それを聞いた人々は、その言葉に驚き、心の傷が癒され。希望を見出すことができたのです。
4節に「暗くなるこも、傷つき果てることもない、この地に裁きを置くまでは。島々は彼の教えを待ち望む。」とあります。この「裁き」とは「計画」という意味です。「神の救いの計画」です。人間はしばしば傷つき、気落ちし、くずおれます。しかし、神は折れることはありません。折れた者を捨てることもありません。否、折れた人を救います。
マタイ福音書12;18、19に、「見よ、わたしの選んだ僕。わたしの心に適った愛する者。彼は争わず、叫ばず、その声を聞く者は大通りにはいない。正義を勝利に導くまで、彼は傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない。」とあります。イエスがガリラヤの各地を巡回し、皮膚病の人、目の不自由な人、足の立たない人、多くの病人を癒されました。イエスは、イザヤの「傷ついた葦を折らず、消えかかった灯心を消すことのない」という、救い主到来の約束通り、働かれました。神の約束が実現したというのです。
星野富広さんに「わたしは傷をもっている。でもその傷のところから、あなたのやさしさがしみてくる」という詩があります。傷を持つという不条理に苦しみますが、その傷を契機にイエスの救いと癒しに出会うというのです。神は、傷を持つからと言って、捨てることはありません。傷を持つが故に、愛し慈しんでくださいます。「わたしの目にはなたは価高く、貴い、わたしはあなたを愛し。」(イザヤ43;4)。わたしにとかけがえない存在である愛してくださる神の愛を信じて歩んでいきたいと思います。