与えられたテキストはマルコ福音書14:32-42です。32節に、「一同がゲッセマネという所に来ると、イエスは弟子たちに、『わたしが祈っている間、ここに座っていなさい』と言われた。」とあります。イエスがいつも祈りの場所にしていたオリーブ山の中腹にあるゲッセマネの園に来られ、祈られました。33節に、「そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく恐れてもだえ始め、彼らに『わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。』と言われた。」とあります。「ひどく恐れ」は「激しく動揺する」という意味です、「もだえる」は「信頼すべきことを失い不安と孤独に苦しむ」という意味です。「死ぬばかり悲しい」の「ばかり」は「達する」という意味で、「限界に達する悲しみ」という意味です。これらの言葉はマルコ福音書に用いられ、他の福音書、ルカ、ヨハネでは用いられていません。マルコ福音書は、限界を超えて苦しみ、激しく動揺し、嘆き悲しみ、神に祈るイエスを描き、嘆き苦しむイエスに救いがあると言うのです。ヘブライ4;14、15に、「さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方はではなく、罪を犯さなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。」とあります。「同情できる」は「理解する、寄り添う、許す」という意味です。イエスは弱い者に寄り添い、理解する方であるというのです。なぜなら、「イエスは、罪を犯さなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同じ様に、試練に遭い、悲しい、苦しい経験に遭われたからであるというのです。イエスが弱さをもつ者に寄り添えるのは、御自身が死ぬほどの悲しみ、試練、苦難を経験されたからであるというのです。
福音書が編集された時代背景はギリシャ哲学のストア派です。代表的な哲学者はセネカです。セネカはネロ皇帝の家庭教師、書記官、演説製作者であり、哲学者でした。幸福主義で、「平静な心こそ幸福」という思想です。「平静心」は「ア・否定」と「パテイア・情欲」で、「あらゆる情欲を禁欲し、克己して得る平静心です。ストア派にとって、死に直面して恐れ迷い、動揺し、嘆き悲しむ者は脱落者、不道徳な者でした。ストア派の敬愛者はソクラテスです。ソクラテスは無実なのに、国家反逆罪で訴えられ、死刑の判決を受けました。しかし、ソクラテスは不当判決であることを知りながら、平然と冷静に、毒拝を仰ぎました。その平静心こそストア派の最善、至福、理想でした。マルコ福音書の教会はストア派哲学に囲まれていました。その中で、死を前にして、恐れ動揺するイエスに真理、真の救い、真の慰めがあると信じ、告白するのです。十字架の死を死ぬほど悲しみ、恐れたイエスに、罪の赦し、神の愛、復活、霊的な救い、永遠の命に与ることができるというのです。 33節に、「イエスはひどく恐れてもだえ始め、彼らに言われた。『わたしは死ぬばかりに悲しい。』」とあります。「彼らに」の「彼ら」は、イエスを裏切る弟子たちです。考えれば、死ぬほどの悲しみを裏切る者に打ち明けるだろうかと思います。しかし、イエスは、話されているのです。そこには、イエスの深い意図があると思います。つまり、死ぬほど悲しみを一人で抱え込むのではなく、誰かに、神に心を開くことが大事であるというのです。「わたしは死ぬばかりに悲しい」と言っていますが、意訳すると、「悲しみはわたしを押し潰す」です。イエスは。苦しみや悲しみを一人で抱え込んでしまうと、押し潰されてしまう、だから、神に心を開く、というのです。コリントⅠ10;13に「神は真実な方であるから、あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と同時に逃れる道を備えていてくださいます」とあります。パウロは「イエスが窮地に立たされた時に、神は逃れる道備えていてくださる経験をされた。」というのです。
35節に「少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、こう言われた。『アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。』」とあります。イエスは彼らに話された後、神に向かって心を開いて祈っています。「御心に適うことが行われますように」。つまり、裏切る弟子たちが赦され、救われるために、十字架の苦難と死を受け入れる、と言うのです。ヨハネ福音書は、「神は独り子を賜ったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠に命を得るためである」と言います、神の御旨を表現しています。「一人も滅びないで、永遠の命を得る」という神の御旨に従い、十字架を負う。自分を裏切る者の罪を贖うために、一人も滅びることがないために、十字架を負うと心に決めたのです。
38節に、「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」とあります。原文は「肉体は弱いが、心は燃えている」で、「心は燃えている」に強調点があります、「心」はカルディア」と言い、「心、心臓、ハート、神の霊を受け入れる場所」を意味します。つまり、弱い肉体ですが、神の霊を受け入れる心は燃えている。「燃えている」は「しきりに求める、渇望する、前に向かう、前進する」いう意味です。イエスは。「時が来た。立て、行こう」と言います。神の霊は、肉体の弱さを故に倒れている者を立ち上がらせ、前進させます。 イエスはその事実を信じ、十字架の道を歩まれました。心を新たにし、イエスに従って十字架の道を歩みましょう。