2025年4月20日 「主イエスの復活」ヨハネ 20:11-18 コリント1 15:12-28

イエスの復活を記念し、感謝と恵みを献げたいと思います。パウロは、コリント⒈ 15;12-14で、「キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。」と。17節には「キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。」と記しています。「わたしたちの宣教、わたしたちの信仰]は、パウロの「生きてきたこと、働いてきたこと、存在した事実]を意味します。つまり、パウロの宣教、働き、人生は無駄になるというのです。「無駄」は「空っぽ、中味のない、」という意味です。「むなしい」は「無意味、空虚、無益」という意味です。パウロは、「キリストが復活しなかったら、人生は空しい、なにも残らない、存在の意味がない。」と言います。言い換えると、イエスの復活は生きる意味、生き甲斐と深い関係があるというのです。17節に「キリストが復活しなかたなら、あなたがたは今なお罪の中にいる」とあります。この「罪」は、「ハマルティア」と言い、「空虚、空しい、絶望」を意味します。キリストの復活がないなら、虚無と絶望の中に、生きる意味と希望を見出せないでいるという。

無教会の内村鑑三は、逝去される前に、南原繁に「この頃、暗い気持ちになっている。自分の一生を振り返ると、自分は何をしてきたのか、果たしてこれで良かったか、大きな無駄をしてきたのではないか。非常に虚しい」と打ち明けた そうです。南原繁は愛弟子でしたから、本心を漏らしたと言われています。内村鑑三は強烈な個性と豊かなカリスマ性をもった信仰者で、多くの著書や業績を残されました。その内村鑑三が、何のために苦労してきたのか、何のために生きてきたのか分からないと空虚、孤独、絶望に苦しんだというのです。その意味では、虚無、孤独、絶望は、人間の罪と同じで、人間の普遍的、本質的な問題であると思います。その人間の本質的な問題に答えようとしているのが、イエスの復活であると思います。言い換えれば、神の終末的希望、永遠の希望です。17節の「キリストが復活しなかったら、今、なお罪の中にいる」の原文は、受動態で「by、よって」があります。意訳すると、神によって復活させられなかったら」となり、「神がキリストを復活させなかったなら」となります。ヨハネ6;38-40に、「わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである、わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。わたしの父の御心は、子を見て信じることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」とあります。「終わりの日に復活させてくださる」は、言い換えれば、絶望させない」という意味です。「終わりの日に復活させる」は。「苦難と死に勝利する。苦難の人生が報われる」という意味です。その事実が証しされるための復活であるというのです。

内村鑑三は、晩年何のために生きてきたか分からないと、空しさと孤独と絶望に苦しんだと言われます。対照的のが、モーリアックというフランスの作家です。彼は亡くなる前に、「わたしは、幼な心に信じたことを、今もそのままに信じている。人生には意味がある、行く先がある。価値がある、一つの苦しみも無駄にならず、一粒の涙も、ひとしずくの血も忘れられることはない、。神は愛である」と言い残されたそうです。ビクター・フランクルは、著書「夜と霧」に、アウシュビッツの収容所の体験を記しています。一日の食事は、一杯の薄いスープと一切れの堅いパンでした。病気になれば、与えられない、死を待つしかない。暗闇と絶望の世界です。しかし、フランクルは驚きの光景を目撃するのです。朝起き上がれない病人の枕元に、誰が置いていったのか分からないのですが、パンが置いてあるのです。何回も見たそうです。自分が食べなければ生き延びることができないパンを、病人の枕元に置く。暗闇の中の一条の光、希望の光です。復活信仰が生きている。復活信仰を信じている証しです。「わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである」。終わりの日に報われるという終末的な希望が生きている証しです。

マグダラのマリアは、イエスの遺体を引き受け、金曜日の夕暮れのために、十分な準備ができず、慌てて墓に納めました。安息日が終わるのを待って、葬り直したいと、お墓に駆け付けました。ところがイエスの遺体がないのです。マリアは泣きながら身をかがめて墓の中を見ました。すると、天使が「あなたは、なぜ泣いているのか、わたしには分かりません」と尋ねました。マリアは「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません」と答えました。こう言いながら、後ろ振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。この「後ろを振り向く」はもう一度、20;15、16で用いられます。「イエスは言われた。『婦人よ、なぜ泣いているのか。誰を捜しているのか。』マリアは園丁だと思って言った。『あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてかください。わたしが、あの方を引き取ります。』イエスが、『マリア』と言われると、彼女は振り向いて、『ラボニ・先生』と言った。」とあります。この「振り向く」は、「ある人に向きを変える、心の向きを変える」という意味です。「墓に」向かっていたマリアの心をイエスに向ける。「墓」は「ムネーマ」と言い、「空、空虚、思い出、追想」という意味があります。「墓の中を見る」の「見る」は、「すがりつく、こだわる、固執する」という意味です。過去にこだわり、固執するマリアの心の向きを変える、さ。墓、空虚、絶望と死に向いているマリアの心を、復活のイエス、復活の命、永遠の命と希望へと向きを変える。それがキリストの復活です。パウロはエフェソ4;22-24で、「滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません」と言っています

栢木哲夫先生は「死を背負って生きる」という著書の中で、イエスの復活と終末的希望」に述べています。或る方の終わりに立ち会われたそうです。その方は最期が近づき、浅い呼吸の中から、傍におられた妻に、小さな声で、しかし、はっきりと、「行ってくるね」と言われたそうです。すると、妻は「行っていらっしゃい」と答えたそうです。二人にとって、死は悲しいこの世の別れであっても、その死を超えた再会の希望がありました。イエスの復活で遺された終末的な希望です。その終末的な希望こそイエスの復活信仰です。イエスが復活されたように、わたしたちも終末的な希望、復活の希望を育てていきましょう。