2024年7月21日「死に打ち勝つ希望」 列王記上3:4-15 ヨハネ福音書12:24-26

 社会福祉法人牧之原やまばと学園の機関誌に、長沢巌牧師の学園創設に至った篤い思いと理念と信仰とが記されていました。長沢牧師は、若い頃、重い障碍を負ったお姉さんを疎ましく思い、愛することのできない自分を責め、心に深い傷を負う経験をされました。そして、先生は傷を負った心を引きずって、近くの教会を訪ねました。教会の牧師に導かれ、罪を自覚し、告白し、イエスの十字架の愛と導きがなければ、生きていくことはできないという思いに至り、洗礼を受けられました。神はどんな人をも愛しておられるという事実とメッセージを知りました。更に、知るだけでなく、伝えたいという思いに至りました。先生は東京神学大学に進まれ、日本基督教団牧師になられました。榛原教会の招聘を受け、赴任されました。そして、お姉さんをはじめ、障害を負った人々のために、やまばと学園の創設に立ち上がり、全てを献げて来られました。それは想像を絶する険しい道行でした。道行を共にする道子夫人と結婚され、労苦と信仰を共にされました。全く予期しないことでしたが、長沢牧師が55歳のとき、突然、脳腫瘍で倒れ救急車で病院に運ばれ、大きな手術をされました。命だけは取り留めましたが、人工呼吸器装置を着けなければ、生命の維持ができない重度の障害を負われました。神は不条理であると思うほど、厳しい道を与えました。その後、17年間、病床にありました。道子先生は、「巌牧師の存在自体が、勇気と希望を与え、支えであった」と述べておられました。長沢牧師の信仰と意志を継承するという使命と希望が道子先生をして、苦難と試練に打ち勝たせたのではないでしょうか。道子先生の存在は神の使命と希望とがなくてしては生きて行くことができない事実を示していると思います。

列王記上3章に、ソロモンが、ダビデの後、いきなり王に即位された次第が記されています。7節に、「わが神、主よ、あなたは父ダビデに代わる王として、この僕をお立てになりました。わたしは取るに足らない若者で、どのように振る舞うべきかを知りません。困惑しています。どうか、あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与えください」とあります。ソロモンは余りにも突然のことで、恐れ、戸惑っていますが、神は、ソロモンの祈りを聞き、大変喜ばれています。つまり、ソロモンが冨や金品や敵の滅びや物質的な繁栄を求めないで、人の苦しみを正しく聞き分ける心と知恵とを与えて欲しいと祈ったために、神は大変喜ばれたというのです。マタイ福音書6章33節には「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」とあります。コリントの信徒への手紙Ⅱ4章18節には、「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです」とあります。マタイ福音書も、パウロも、ソロモンも、神は見えないもの、永遠なるものを求める祈りを喜ばれると言います。

歴代誌下24章に記されている南ユダ王国のヨアシュ王の物語を引用します。ヨアシュは7歳で王に即位し、40年間ユダを納めました。7歳の子どもですから、後見人として、祭司ヨヤダが選ばれました。祭司ヨヤダは正しい信仰を有した人物で、ヨアシュ王は祭司ヨヤダが仕えていた間は、神の目に適うことを行いました。しかし、ヨアシュ王は野心家で、功績を残すこと、名誉を受けること、自分の利益になることを求めました。自分の功績を残すために、エルサレム神殿の修復や偶像礼拝の一掃しようとします。しかし、ヨヤダは反対します。ヨヤダは、目に見えることではなく、目に見えない心の内側のこと、信仰、礼拝、内実の充実を求めるべきだと進言します。しかし、ヨアシュ王は祭司ヨヤダの勧告を聞き従いません。ヨアシュ王の弱さです。ヨアシュ王はヨヤダが生きている間は守られていましたが、ヨヤダが死ぬと、部下に殺されるという悲惨な最期を遂げました。ヨアシュ王が神の御心に反することを行ったためです。

フィリピの信徒への手紙3章13節に、「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」とあります。パウロは目に見える目標とは違った、目に見えない、上へ召して、与えられる神の賞、目標を目指しています。それが、苦難に満ちた世の中を生き抜く力、苦難に打ち克つ力であると言います。

コリントの信徒への手紙Ⅰ15章35-38節には、「キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です」とあります。パウロが復活の事実を解き明しています。復活は現実に実証できる出来事ではなく、信じる信仰の事柄であるといいます。復活は、イエスが「神の国」について譬えで教えられたように、「譬え」でしか語れないと言います。「一粒の麦」に喩えます。麦は地に蒔かれると朽ちていきます。朽ちない麦の種はありません。必ず朽ちていきます。しかし、それで終わりではありません。芽が出て、枝が生え、花が咲き、実を成らせます。種の時には予想できない命があります。「復活」も一粒の麦の種と同じだというのです。麦は蒔かれた一粒種が朽ちて、新しい命が生まれます。イエスの命も、イエスの死後、生まれると言うのです。ヨハネ福音書12章24節に「はっきり言っておく、一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」とあります。死は新しい命が生まれるための死であると言い、死に打ち勝つ希望を明らかにしています。

マルセルという哲学者は、希望について、二種類の希望があると言います。一つは日常的、具体的な希望です。目に見える希望です。もう一つは、目に見えない、根源的、究極的な希望です。テモテへの手紙Ⅱ4章6節に、「わたし自身は、既にいけにえとして献げられています。世を去る時が近づきましました。わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。しかし、わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも授けてくださいます。」とあります。義の冠、信仰の勝利を受ける希望です。人が死を目前にし、不条理を前にして、力を発揮する希望です。どのような絶望的な状態に陥ってもなお消えない希望です。その希望を与えられ、神の希望に生きていきたいと思います。