ホセア書11章1、2節に、「まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。エジプトから彼を呼び出し、わが子とした。わたしが彼らを呼び出したのに、彼らはわたしから去って行き、バアルに犠牲をささげ、偶像に香をたいた。」とあります。イスラエルの民がエジプトの奴隷として、その苦役に苦しんでいたとき、主なる神はイスラエルの民を助け救い出しました。それなのにイスラエルの民は主なる神を捨て、バアルの神を崇拝し犠牲をささげました。彼らは主なる神を捨て、利益をもたらすと思い込んだバアルを神に祭り上げ、その虜になりました。9章1,3節には、「お前は自分の神を離れて姦淫し、どこの麦打ち場においても、姦淫の報酬を慕い求めた。彼らは主の土地にとどまりえず、エフライムはエジプトに帰り、アッシリアでけがれたものを食べる。彼らが食べる者は皆、汚れる。彼らのパンは自分の欲望のためだ。それを主の神殿にもたらしてはならない。」とあります。エフライムは苦難のために、主なる神の与えた土地に留まっていることができず、かつて奴隷であったエジプトに帰り、アッシリアの奴隷になり、バアルの神を慕い、主なる神から遠く離れてしまったというのです。11章8節には、「ああ、エフライムよ、お前を見捨てることできようか。イスラエルよ、お前を引き渡すことができようか。アドマようにお前を見捨て、ツェボイムのようにすることができようか、わたしは激しく心を動かされ、憐れみに胸を焼かれる。」とあります。「アドマとツェボイ」とは、ソドムとゴモラが神の裁きのために滅びたとき、滅ぼされた町です(創世記18章1節以下)。主なる神は、アドマやツェボイのように、エフライムとイスラエルを見捨てることはできない。主なる神は激しく心を動かされ、憐れみに胸を焼かれ。エフライムとイスラエルを我が子のように愛したと言います。11章9節には「わたしは、もはや怒りに燃えることなく、エフライムを再び滅ぼすことはしない。わたしは神であり、人間ではない。お前たちのうちにあって聖なる者。怒りをもって臨みはしない。」とあります。主なる神はエフライムに、「あなたはわたしの愛する子、わたしがあなたの神である。わたしの心は憐れみで燃え上がる。それを抑えるのに苦しむ。わたしはあなたを二度と滅ぼしはしない。わたしの元に帰れ」と言われます。4章1、2、3節に「主の言葉を聞け、イスラエルの人々よ。主はこの国の住民を告発される。この国には、誠実さも慈しみも、神を知ることもないからだ。呪い、欺き、人殺し、盗み、姦淫がはびこり、流血に流血が続いている。それゆえ、この地は渇き、そこに住む者は皆、衰え果て、」とあります。主なる神がエフライムとイスラエルに悔い改めを求める言葉です。エフライムとイスラエルでは、六人の王が次々と失脚し、暗殺されました。イスラエルの最後の王ホアシュは、アッシリアへの莫大な朝貢の要求に苦しみ、エジプトに援助を求め、アッシリアの朝貢を中止しました。それを知ったアッシリア王サルゴン2世は怒り、直ちにイスラエルに軍を送り、ホシェア王を捕縛し、イスラエルとエフライムを領土を占領しました。エフライムの首都サマリヤは堅固で、三年間包囲に耐えましたが、遂に紀元前721年陥落し、滅びました。主なる神はイスラエルの滅亡を見て、激しく動揺し、憐れみの心は燃え上がったといいます。イスラエルを思う熱い心を抑えておくことはできず、「わたしの元に帰って来なさい」と呼び掛けました。主なる神はイスラエルの痛みを見て、憐れの心を燃え上がらせる熱い思いを募らせる神です。
ルカ15章11節以下に、イエスの語った「放蕩息子の譬え話」が記されています。或る息子が父親の財産の半分を貰って、父を捨て、家を出て行きました。その日から、父は毎日家の前に立ち、息子の帰るのを待ちました。息子は帰らず、放蕩三昧し、全ての財産をなくし、家畜の餌で空腹をしのぐまで落ちぶれました。彼はそこで初めて、父親の愛を悟りました。悔い改め、父のもとに帰って来ました。帰って来た息子を見つけた父親は、自分の方から走り寄り、自分を捨て出て行った息子を抱き抱え、「死んでいた息子が生きかえり、居なくなっていたのに見つけた」と喜んだというのです。イエスが語った譬え話です。自分を裏切った息子を赦し迎え入れる父親は、主なる神を意味します。主なる神は自分を捨てた子を赦し、憐れみに胸を焼かれる方です。自分を裏切った子イスラエルを赦さないではいられない赦しの神です。ルカ福音書10章で、イエスは「善いサマリヤ人の譬え話」を語っています。10章33節に「ところが、旅をしていたあるサマリヤ人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオ銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』」とあります。この「憐れに思い」は、ギリシャ語で「スプランクナゼニサイ」と言います。マタイ福音書9章36節の「また、群衆が飼い主のない羊のような弱り果て、打ちひしがれている群衆を見て、深く憐れまれた。」で用いられています。「深く憐れみ、お腹を痛める、他人の痛みに共感する」という意味があります。イエスの行動の原点です。イエスが弟子たちを派遣された動機は、罪深い、苦難を負い、不条理に絶望している人々を見て、ハラワタを痛められ宝であると言います。イエス御自身が、他人の痛みに心を動かされ、ハラワタを痛め、駆り立てられたからである。その事実がイエスの弟子たちの派遣の原点、信仰であるというのです。コリントの信徒への手紙Ⅱ5章13,14節に「わたしたちが正気でないとするなら、それは神のためであったし、正気であるなら、それはあなたがたのためです。なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。」とあります。「駆り立てられる」は「押し迫られる、押し出される」という意味です。コリントの教会はパウロの宣教と伝道で生まれましたが、パウロがコリントを離れると、他の使徒たちが関わりました。すると、教会の中に分裂
分派が生じ、反パウロ派の人々は、パウロを批判し攻撃しました。しかし、パウロは少しも恐れず、神の愛、キリストの福音を伝えました。神の愛がパウロをして福音を語らずにはいられないよう駆り立てたのです。「神の愛に駆り立てられて」が、パウロの宣教と生きることの原点でした。コヘレトの言葉12章1節に、「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。苦しみの日々がこないうちに。」とあります。年をとって、何のために生きてきたのか分からない、生きる意味がないと呟かないために、青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよというのです。「お前の創造主に心に留めよ」とは、「主のために生きる」という生きる究極的な目的を見出すことを意味します。苦難に打ち勝たせる力と術を持っているキリストの言葉のためにという目的です。パウロは、イエスの十字架の死の目的は、生きている人たちが、自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活されたイエスのためで生きることを信じることであると言います。パウロの宣教の時代は厳しい時代でした。しかし、パウロは恐れず、神の愛とキリストの福音を伝えました。フッリピ1章12節に「兄弟たち、わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい。つまり、わたしが監禁されているのはキリストのためであると、兵営全体、その他のすべての人々に知れ渡り、主に結ばれた兄弟たちの中で多くの者が、わたしの捕らわれているのを見て確信を得、恐れることなくますます勇敢に、御言葉を語るようになったのです。」とあります。神の愛はパウロをして、キリストの十字架と復活を語らずにはおきませんでした。神の愛はパウロを駆り立てました。「神の愛に駆り立てられ」がパウロの信仰と宣教の原点でした。