2024年6月23日 「神の寛容」創世記21:9-21 コリントⅠ15:1-11

 与えられたテキストは創世記21:9-21節のアブラハム物語です。12章1,2節に「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し高める。あなたの名を、全ての者の祝福の源になるように。」とあります。アブラハムは神の言葉を信じて、行き先を知らないで、カルデアのウルを出立ちしました。そして、ハランに来ました。アブラハム75歳、サラ65歳の時です。しかし、その後、何年経っても、約束のしるしの子どもが与えられません。遂に、アブラハムは神の約束を疑い、サラの女奴隷のエジプト人のハガルに子ども産ませました。16章11節に、「今、あなたは身ごもっている。やがてあなたは男の子を産む。その子をイシュマエルと名付けなさい、主があなたの悩みをお聞きになられたから。」とあります。エジプト人のイシュマエル与えられたのです。イシュマエルはすくすくと成長しました。しかし、アブラハムと大きな試練が起こりました。神の約束が成就し、長く与えられなかったアブラハムと妻サラに子ども、イサクが産まれました。サラは世継ぎのイサクが生まれると、イシマエルを疎ましく思い始め、ハガルを邪険に扱うようになりました。また、イシュマエルが「イサクをからかった」と言い掛りをつけるのです。サラは、ハガルとイシュマエルの親子が家にいて欲しくなくなり、冷たく当るようになりました。21章10節に、「あの女とあの子を追い出してください。その女の息子は、わたしの子イサクと同じ跡継ぎとなるべきではありません。」とあります。「イシュマエルを追い出して欲しい」と、アブラハムに訴えています。サラは非情です、無慈悲です。アブラハムはサラの訴えを聞いて、動揺し、葛藤したと思いますが、或る朝、早く起き、パンと水の皮袋を用意し、ハガルに与え、背中に負わせ、イシュマエルと共に追放したのです。エジプト人の女奴隷とその子どもとは言え、無慈悲な理不尽な、許されない仕打ちです。アブラハムの犯した罪は大きいと思います。しかし、それをカバーしたのが主なる神です。神の愛です。ハガルとイシュマエルが追放されたベエル・シェバは荒れ野で、革袋の水は、無情にも瞬く間になくなりました。途方に暮れたハガルは、イシュマエルを一本の灌木の下に寝かせ、「わたしは子どもが死ぬのを見るのは忍びない」と言って、少し離れたところに、座り込み。悲しみに耐えかねて泣きだしました。それを耳にしたイシュマエルも泣き出しました。これ以上ない悲劇です。無慈悲な理不尽な話です。

21章17節に「神は子供の泣き声を聞かれ、天から神の御使いがハガルに呼びかけて言った。『ハガルよ、どうしたのか。恐れることはない。神はあそこにいる子供の泣き声を聞かれた。立って行ってあの子を抱き上げ、お前の腕でしっかり抱き締めてやりなさい。わたしは、必ずあの子を大いなる国民とする。』」とあります。主なる神はイシュマエルを、エジプト人の奴隷の子、異邦人の子だから知らないと捨てることはしません。逆です。エジプト人の奴隷ハガルとその子イシュマエルのために井戸を備え、「わたしは必ずあの子を大きな国民とする」と約束します。ハガルとイシュマエルは追放された者、愛されることのない者の象徴です。その何かの理由で、追い出された者、捨てられる者、居場所のない者を顧み、憐れみ、受け入れるのがヤッハウェの神であるというのです。ルカ福音書2章6節に「マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからであ」とあります。イエスが誕生されたとき、誕生の場所も、寝かせておく場所がなかったというのです。これ以上に悲しい話はありません。それだから、イエスは追い出された者、打ちひしがれている者の悲しみと辛さを知っておられるというのです。マタイ9章36節に、「群衆が飼い主のない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。」とあります。イエスは、群衆が飼い主のない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。その深く憐れむ心が弟子たちを派遣する動機となったというのです。この「深く憐れむ」はギリシャ語で「スプランクナゼニサイ」と言い、原語は「腸、腹を痛める、断腸、断腸の思い、」という意味です。イエスは貧しい群衆に御自分の腸を痛めるほどの共感、同情をもたれた。その心を痛みが弟子たちの派遣の動機になったというのです。

パウロは、ローマの信徒への手紙9:5の「わたしは、自分の民でない者をわたしの民と呼び、愛されなかった者を愛された者と呼ぶ」というホセアの言葉を引用して、神の寛容、愛、憐れみについて語ります。ホセアの妻ゴメルは二児の母でしたが、夫を捨て、他の男のところに走ります。一度は連れ戻し、二度と行かないようにと囲いまでします。しかし、彼女はその囲いを破って、再び男の所に走り、荒れた生活に戻ります。最後は、男に捨てられ、売られます。ヤッハウェの神はホセアに「行け、夫に愛されていながら姦淫をする女を愛せよ」と命じます。神の命令と言っても、誰も従うことはできないと思います。しかし、預言者ホセアは従いました。自分を裏切り、捨て、他の男に走った者を迎え入れたのです。パウロはホセアの赦し、愛、憐れみを讃えています。ホセアとゴメルの関係は、神とイスラエルの人々との関係を象徴していると思います。淫行の女・ゴメルは、異教の神バアルに熱中していたイスラエルを表します。イスラエルの人々はバアル祭儀で、聖所に住み込んでいた巫女と戯れ、淫行が行われていました。バアル宗教は人を堕落させ、腐敗させ、主なる神を捨て、バアルの神に熱中させました。ホセア書11章7節に、「わが民はかたくなにわたしに背いている。たとえ彼らが天に向かって叫んでも、助け起こされることは決してない。」とあります。神は人格神ですから、堕落したイスラエルの民に怒り、何回も悔い改めを呼びかけました。しかし、イスラエルの民は、神に立ち返ることを拒み続け、堕落し、罪を犯しました。ヤッハウェの神は悔い改めることのない、不信仰なイスラエルを裁かないではおかないといいます。事実、イスラエルはアッシリアの捕囚、バビロンの補囚という厳しい裁きを受けました。

11章8節、9節に、「ああ、エフライムよ、お前を見捨てることができようか。イスラエルよ、お前を引き渡すことができようか。アドマのようにお前を見捨て、ツェボイムのようにすることができようか。わたしは激しく心を動かされ、憐れみに胸を焼かれる。わたしは、もはや怒りに燃えことなく、エフライムを再び滅ぼすことはしない。わたしは神であり、人間ではない。」とあります。「激しく心を動かされる」は、「翻って向きを変える」と意味です。「怒りをひっくり返して、向きを変える、赦す」というのです。イスラエルの人々は、悔い改めを求められても、悔い改めない、頑なでした。主なる神を捨て、バアルの神に心を奪われました。しかし、主なる神は、そのような者を見捨てないのです。憐れみを注いでくれるのです。コリントⅠ15:9に「わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でいちばん小さい者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。神の恵みによって今日のわたしがあるのです。」とあります。「神の恵み」は「神の寛容」という意味です。パウロはかつて使徒たちを迫害し、赦されことのない罪を犯しました。しかし、神はパウロを赦してくださったのです。神に背き敵対した者を見捨てることはなく、赦し、受け入れてくださる。今生きていることができるのは、神の一方な憐れみと赦しと寛容であるというのです。その溢れるような寛容を伝えて行きたいと思います。