与えられたテキストはヨハネ3:1-15です。イエスがニコデモに救いについて解き明かしをしているところです。ヨハネ福音書は、ニコデモがファリサイ派に属し、ユダヤの議員であると記しています。「ユダヤの議員」は、「サンヘドリン」と言い、ユダヤ全土の祭司長、長老、学者から選ばれた70人で構成されたユダヤ最高議会です。「ファリサイ派」は、「ベルーシーム」と言い、「分離する、分離主義者」という意味で、自分たちは神に選ばれ者だという強烈な選民意識を持つ,真面目で熱心な小さな教派で、人から尊敬されていました。
しかし、イエスは、ファリサ派の人々が自分たちは神に選ばれ者だという彼らの内側にある選民意識に、根本的な誤りを見て、批判しています。マタイ23;25に、「ファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。杯や皿の外側はきれいにするが、内側は強欲と放縦で満ちているからだ。」とあります。ファリサイ派の人々の内側の歪み、倒錯を指摘しています。自尊心を傷つけられたファリサイ派の人々は、イエスを憎み、敵視し、ヘロデ党の人々と、イエスを殺そうと相談し始めます。そのファリサイ派の長老で、最高議会の議員であるニコデモが、イエスを訪ねるというのです。
3節に「ある夜、イエスのもとに来て、言った。」とあります。ユダヤの習慣では、夜に初対面の人を訪ねることはありません。また、ファリサイ派の議員がイエスを訪ねるということは考えられません。そのようなことをすれば、世間から厳しい批判を浴び、議員の資格や長老の立場を失います。そはれで、ニコデモは「夜」を選んだのだと思います。それでも、イエスを訪ねたと言うことは、ニコデモの心の中に、イエスを尋ねなくてはいられない大きな問題と深い悩みがあったということではないでしょうか。ニコデを見ると、改めて人間の心の複雑さ、抱えている問題の深さを認識させられます。外面を見れば、ユダヤの最高議会の議員、ファリサイ派の長老という立派な肩書きから、近寄りがたい威厳を感じ、悩みがあるなど見えません。しかし、彼の内側には、存在に関わる深刻な悩みを抱えていたのです。言い換えれば、その人が認識する、しないは関係なく、罪深い存在であるという事実です。ローマ書3;9に「では、どうなのか。わたしたちには優れた点があるのでしょうか。全くありません。すでに指摘したように、ユダヤ人もギリシャ人も皆、罪の下にあるのです、次のように書いてある通りです。『正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない。善を行う者はいない。ただの一人もいない。』」とあります。人の内側には誰にも共通する罪の問題があると言うのです。パウロは、エルサレムに留学し、当時の最高の学者ガマリエルの下で学び、将来を嘱望されたファリサイ派のエリートでした。そのパウロが、「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょう。」と言っています。この「惨めな」は「こらえるれない」と「苦しんでいる、悩んでいる」から成っていて、意訳すると、わたしはこらえられない悩みに苦しんでいる、たえきれない悩みに悩んでいる」となります。パウロの心の奥くには、深い悩み、苦悩、闇、絶望、空虚、罪があるというのです。そして、そこから救われたいという思いから、救いを求めてイエスのところに行ったというのです。
イザヤ書6;5で、「その名は、驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君、と唱えられる」と、来るべきメシアを預言しています。この「驚くべき指導者」は「悩みや苦しみに共感する者」、ワンダフル・カウンセラー、素晴らしい人生の相談者という意味です。イザヤは、「来るべきメシアは、目に見えるところ、耳にするところ、つまり、表面的なこと、現象面で、人を裁かない、評価をしない。目に見ない苦しみ、人に知られない痛みに心を留めてくれる方である」と言っています。コリントⅡ4;18に「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますに存続するからです。」とあります。
ニコデモの苦悩は、誰も分かってくれません。しかし、イエスはニコデモの見えない苦悩に留め目を注ぎ、救いの道を示されるのです。:3節に、「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることができない。」とあります。ニコデモは直ぐに理解できませんでした。「もう一度母親の胎内に入って生まれることですか」と尋ねています。「新たに」を、「もう一度、初めから」と受け取ったようです。「新たに」は、「上」と「よって」で成っています。つまり、「神によって」です、神によって生まれなければとなります。ファリサイ派は、自信過剰で、神に頼ることはしませんでした。自分の力、精進、努力、頑張りに頼ってきました。イエスは、自分の力、精進、努力ではなく、神によって、神に委ねる、神に自分を明け渡す、そこに救いの道を示されました。:5節に、「だれでも、水と霊とから生まれなければ、神の国に入ることはできない」とあります。「水と霊」はヨハネ福音書だけの言葉です。ヨハネ福音書の「水」は、洗礼を表しています。洗礼は、バプテスマのヨハネが始めたように、身体も頭も水の中に沈めます。つまり、古い自分の死を意味します。一度死に、そこから新しい命に生きることを意味します。「古い自分に死ぬ」ことは、難解です。マルコ10章に「金持ちの男」の物語があります。一人の男が、「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」と、イエスに尋ねると、イエスは「あなたに欠けているものか一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる、それから、わたしに従いなさい」と言われた。すると、彼は気を落とし、悲しみながら立ち去りました。彼はイエスの言葉に耐えられなかったのです。「全てを捨て、従え」と言いますが、全てを捨てることはできません。しかし、イエスは人の弱さを知って、「水」に「霊」を加えています。霊・プニューマ、ヘブル語「ルーアッハ」です。土の塊であったアダムに、霊・ルーアッハを吹き入れることによって、人間・アダム、神を愛し、人を愛し、生きる意味を見出す人間になりました。神の霊・力によって、新しく変えられ。生かされる、委ね、つながって生きるというのです。水野源三さんの詩、「あの日あの時に、戸の外に立ちたもう主イエス様の、御声を聞かなかったら、戸を開けなかったら、お迎えしなかったら、わたしは今どうなったか、悲しみのうちにあって、御救いの喜びを知らなかった」。自分の力ではなく、頑張りではない。主に委ねる信仰を歌っています。イエスが、今日も新しく生まれるようにと、呼び寄せて下さっています。主の言葉を聞きたいと思います。