2024年6月2日 「律法の本質と神の愛」申命記26:5-11 ルカ福音書10:25-37

 申命記26章5-9節に「わたしの先祖は、滅びゆく一アラム人であり、わずかな人を伴ってエジプトに下り、そこに寄留しました。しかし、そこで、強くて数の多い、大いなる国民になりました。エジプト人はこのわたしたちを虐げ、苦しめ、重労働を課しました。わたしたちが先祖の神、主に助けを求めると、主はわたしたちの声を聞き、わたしたちの受けた苦しみと労苦と虐げを御覧になり、力ある御手と御腕を伸ばし、大いなる恐るべきこととしるしと奇跡をもってわたしたちをエジプトから導き出し、この所に導き入れて乳と蜜の流れるこの土地を与えられました。」とあります。モーセがイスラエルの人々を集めて、行った主なる神の信仰告白と勧告です。主なる神が苦難の中に置かれているイスラエルの人々を愛し、恵み、救出したことが語られています。

コリントⅠ15章9節には、「わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さい者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。神の恵みによって今日のわたしがあるのです。」とあります。パウロのイエス・キリストの愛と赦しの告白です。換言すれば、神の一方的な恵みによって、生かされている。だから、与えられた冨は神の賜物と受け入れ、貧しい人々、寄留者、孤児、寡婦に分け与えなさいと言われるのです。つまり、律法の本質は小さく、弱い者と分け合い、貧しく弱い者と共に生きる共生であるというのです。古代イスラエル時代に、こんなに優しい愛に富んだ律法が存在したことは驚きです。今日のイスラエルとガザとの紛争と戦争を見ると、モーセの律法の本来の精神はどこかに行ったのかと思います。

かつて作家の村上春樹さんはエルサレム賞を受賞されました。村上さんは授与式で、「高い壁と卵」という喩えを、スピーチされました。「もし固い高い壁と、そこに投げつけられると壊れた卵があるとしたら、たとえ高い壁がどんなに正しく、卵がどんなに間違っていても、わたしは卵の側につく。」と述べたことを思い起こします。「固くて高い壁」は「イスラエル」を、「壊れる卵」は「パレスチナ暫定自治区」を意味します。イスラエルは強力な軍事力で、貧困で弱小で難民のパレスチナ人を追い出し、高いコンクリートの壁で囲み、狭い自治区に押し込めたというのです。村上春樹さんは「イスラエルはモーセの勧告を心に、律法を本質にして欲しい。また、モーセの勧告や言葉は現実社会や政治の中で、力を持つと信じたいと思う。」と述べられました。

コリントⅡ8章8節に「わたしは命令としてこう言っているのではありません。他の人々の熱心に照らしてあなたがたの愛の純粋さを確かめようとして言うのです。あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。」とあります。パウロが迫害と貧困で困窮しているエルサレム教会へ、献げ物をして助けて欲しいと、コリント教会に依頼しています。それは、あくまでも命令や強制ではない、神の恵みから生まれた自発的行動であると言います。マケドニアの教会は、パウロの伝えるイエス・キリストの福音を信じ受け入れ、イエス・キリストの心を心にし、模範にしました。コリントの教会もマケドニア教会から学んで欲しいというのです。しかし、それは、ネバナラナイという律法ではない、福音、神の恵みから生まれる働きであると繰り返し言っています。確かに献金を献げることは、おおきな負担を掛けます。事実コリント教会にも、エルサレム教会を援助することに反対する者がいました。パウロは、信仰的に見るならば、困窮している教会への献物は損失ではない、逆に富み豊かになると言うのです。

ヤコブ2章5節に「わたしの愛する兄弟たち、よく聞きなさい。神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか。」とあります。この「富ませ」は、「満ちあふれさす、溢れ出る」とう意味です。また、物質的な意味で富むではなく、信仰的な、心的な意味で冨むという意味です。神との関係において、喜びや感謝が溢れ出ることを意味します。彼らは神を信じる前は、霊的な喜びに溢れる、心が満ち溢れるということを知りませんでした。少しでも多くの富や物を得ることに夢中になっていました。また、自分の力や自分に属する富や世の物を頼っていました。しかし、主なる神に出会い、イエスに愛されていることを信じると、心が豊かになることを知りました。フィリピ4章11節に、「わたしは、自分の置かれている境遇に満足することを覚えたのです。貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても。空腹であっても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。」とあります。パウロは献げることは損失や犠牲ではなく、心が富み豊かになり、神を信じる信仰が生まれるといいます。ローマ8章28節に「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」とあります。この「益」は、漢字の意味は「もうけ、利得」ですが、原語は「スン・共に、合わせて」と「フエロー・分かち合う」から成っています。つまり、「分かち合う、共に生きる、互いに支え合うことが生まれる」という意味です。何時の時代も、「分かち合う、共に生きる」ことは、難しく、課題です。「格差社会」という言葉があります。多くもっている者は、さらに豊かになり、持つことのできない者は、ますます貧困になる。人と人との関わりは分断され、人は孤立します。自分は自分で守らなければと、自己中心になります。その自己中心社会を克服し、共生を神の課題としたのがモーセであり、パウロであり、イエス・キリストであると思います。

かつて評論家の筑紫哲也さんは「日本の壊・崩壊」という言葉で警告され、「人の基本的な関わりである共に生き、分かち合うことが壊れてきている」と言われました。聖書にも、「善きサマリア人の譬え」のように、共に生きる道を伝えています。犬養道子さんは、「キリストの福音は人と神との関係を説く、同時に、人と人との関係・連帯の再構築のプロブラムを示している。イエスの十字架の死は分かち合い、支え合う世界の創造のためである。また、イエスは狭さを破ることを示している。視界と心の狭さを果敢に破って、広く『出ることである』ことを奨めている」と述べていました。

マケドニア教会とエルサレム教会の間には、異邦人教会とユダヤ人教会という高い壁がありました。イエスは、その高い壁と深い狭さを果敢に超えて、広く出ていく力を与えました。ルカ福音書10章25-37節に「善いサマリア人の喩え」があります。ある旅人が強盗に襲われ、半殺しにされたまま道端に倒れていました。そこを祭司が通りかかりましたが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。次にレビ人が通りかかりました。彼もその旅人を見ましたが、同じように、行った。ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て、憐れに思い、近寄り、助け起こし、自分のロバにせ、宿屋に連れて行って介抱しました、イエスを信じ受け容れたサマリア人は高い壁を突き破って、広く出て行く力があります。全ての違いを越えて分け合う、支え合う、互いに支え合える生き方を生み出す力があります。そこに希望を見出だしたいと思います。