与えられたテキストはヨハネ福音書17:6-19です。イエスが十字架の死を覚悟され、最後の晩餐を行い、弟子たちの足を洗い、新しい使命を与え、執りなしの祈りをしていす。イエスの弟子になることを「召命」と言います。「召」は、「刀」と「口」の会意文字で、「刀」は「曲線を描く刀、人間を越えた力」を、「口」は「言葉」を意味します。言い換えれば、「召命」は「神の力を持った言葉で呼び寄せる」という意味です。彼らが弟子になったのは、彼らの能力や才能ではなく、イエスの力、選び、招きである、その召命が何よりも本質であるというのです。マルコ福音書1;16に、「イエスはガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師であった。イエスは、『わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう。』と言われた。二人はすぐに網を捨て従った。」とあります。ペトロとアンデレの召命物語で、イエスの選びと招きの言葉があり、彼らはイエスの言葉を受け入れ、網と舟を捨て従いました。イエスの招きの言葉とペトロとアンデレの応答がなければ、弟子になることはありませんでした。ヨハネ福音書15:16には、「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って、実を結び、その実が残るように、」とあります。弟子たちと教会の原点は、イエスの選びと招きである事実を示しています。
17:14-17に、「わたしは彼らに御言葉を伝えましたが、世は彼らを憎みました。わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないからです。わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないのです。真理によって、彼らを聖なる者にしてください。あなたの御言葉は真理です。」とあります。15;18には、「世があなた方を憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んだことを覚えなさい。あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。あなたたちを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである。」とあります。この「属する」は、ギリシャ語で「エク」と言い、「よって、ために」と言う意味です。意訳すると、「わたしが世によって、世のために生きるのではなく、神によって、神のために生きているように、あなたたちも、神によって、神のために生きる。」となります。弟子たちの生きる原点と使命とを指し示しています。ローマ14:8に、「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。」とあります、パウロは「わたしたちの生きる究極的な根拠と目的はイエス・イキリストにある」と言います。言い換えれば、イエスの弟子であることの根源と目的は、能力や才能ではなく、イエスの召命と選びであると言うのです
サムエルがサウルを王に即位しようとしました。サウルは、イスラエルにサウルに勝る者は一人もいないと言われるほど、誰よりも背が高く容姿も見事で、民衆からの人気もあり、優れた立派な人物と見られていました。しかし、サムエルはサウルを王にすることを躊躇します。その理由は、サウルが見えることには熱心で、関心があるけれども、見えないことには無関心であったかららです。コリント⒈4:18に、「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」とあります。パウロの信仰告白です。サムエルも王として、見えないもの、見えない真理、真実を大切にし、信頼しました。しかし、サウルは見えるもの、世俗的な事柄、不義、不真実な事柄を大事にし、従いました。そのサウルの生き方が、サムエルをして、サウルを王に立てることに躊躇させました。サウルの見えない事柄に無関心と不信仰は、サウルの晩年の苦悩と悲惨な人生の要因になりました。
イエスは、弟子たちが見えない事柄、信仰的な事柄、真理に心を向け、神に繋がって生きるように、キリストに属する者として生きるようにと祈っています。:17に「真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたの御言葉は真理です。わたしを世にお遣わしになったように、わたしも彼らを世に遣わしました。」とあります。この「聖なる者としてください」は、口語訳では「聖別してください」と訳されています。「聖別」は「離す、別ける、選ぶ」という意味で、「清くなる、清められる、道徳的に立派になる」ではなく、「遣わされる、派遣される」という意味です。意訳すると、「真理によって、彼らを世から選ばれた者としてください。わたしを世にお遣わしになったように、わたしも彼らを世に遣わしました。」となります。預言者イザヤは、「炭火を挟んだひばしをもったセラピムが飛んで来て、唇に触れ、『あなたの咎は取り去られ、罪は赦された』と宣言されました。罪の赦し、清めの経験です。同時にイザヤは「誰を遣わすべきか。だれが我々に代わって行くだろうか」という神の言葉を聞きます。即座に、イザヤは「わたしがここにおります。わたしをお遣わしください」と答えました。すると、イザヤは世に遣わされました。「罪赦されること、聖なる者になる」とは、神から使命を託されて、世へ派遣されることを意味します。「わたしも彼らを世に遣わしました」の「遣わす」は、ギリシャ語で「アポステロー」と言います、その名詞「アポストロス」で「使徒・大使・使節」という意味です。使命を負わせて遣かされる者のことです。弟子たちは、イエス・キリストから、使命を与えられて、世に遣わされました。イエスは、弟子たちが神の使命を受けて、遣わされた者であると信じるようになるようにと祈っています。
栢木哲夫先生は「何らかの使命をもって生きてきた人は良き死を迎える。何も大それた使命でなくてもいい、平凡な、日常的な使命で十分である。人は、自分に与えられている使命を自覚し、信じている、それを果たしながら生きる。それは素晴らしいことであるし、大事なことです。」と述べています。三浦綾子さんは「使命というのは、いのちを使うと書きます。小さなことで良い、自分の命を使い果たしながら生き、死を迎えたいと思う」と述べています。イエスは、「聖なる者としてください。世から選び出され、使命を与え、派遣されていると信じることができ者にと祈っていてくださいます。その祈りを大事にしたいと思います。