ペンテコステです。与えられたテキストは使徒言行録2章1-4節です。1-4節に「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」とあります。「五旬祭」は、ギリシャ語では「ペンタツーフ」と言い「第五十(日)」という意味で、イスラエルの民族とイスラエルの宗教の誕生の出来事を意味します。初代教会では、イエスが十字架の死後、復活し、顕現し、昇天し、聖霊が50日目に弟子たちの上に降り、弟子たちは聖霊で満たされ、それぞれの国の言葉でキリストの福音を語り始めたといいます。聖霊降臨は初代教会の誕生を意味し、信仰の原点であります。
聖霊降臨の背景には、所謂、終末の遅延があります。初代教会はイエス・キリストを信じ、告白するために、厳しい迫害と殉教に遭い、多くの人が信仰を奪われ、殉教しました。ヨハネ黙示録13章1節には、「わたしはまた、一匹の獣が海の中から上って来るのを見た。これには十本の角と七つの頭があった。それらの角には十の王冠があり、頭には神を冒涜するさまざまの名が記されていた。」と、15節には「第二の獣は、獣の像に息を吹き込むことを許されて、獣の像がものを言うことさえできるようにし、獣の像を拝もうとしない者があれば、皆殺しにさせた。」とあります。キリストを信じる信仰が故に、偶像礼拝や皇帝礼拝を拒否した者が苦難と迫害を受けました。その中から終末信仰が起こってきたことが記されています。
2章10節には「あなたは、受けようとしている苦難を決して恐れてはいけない。見よ、悪魔が試みるために、あなたがたの何人かを牢に投げ込もうとしている。あなたがたは、十日の間苦しめられるであろう。死に至るまで忠実であれ、そうすれば、あなたに命の冠を授けよう。」とあります。ペトロの手紙Ⅰ4章12節には、「愛する人たち、あなたがたを試みるために身に降りかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません。むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい、キリストの栄光が現れるときにも、喜びに満ちあふれるためです。」とあります。初代教会の人々は、イエスが十字架につけられ、殺されましたが、神によってよみがえらされ、勝利と栄光が与えられた事実を語ると、激しい迫害と弾圧とが加えられました。すると、彼らは人の子・メシアが現れ、世の終わりが到来し、義しい裁きが行われ、キリストを信じる者は勝利に導かれ、迫害する者は滅びるという終末信仰が信じられ、語られました。コリントの信徒への手紙Ⅰ16章21節以下に「わたしパウロが、自分の手で挨拶を記します。主を愛さない者は、神から見捨てられるがいい。マラナ・タ(主よ、来てください)。主イエスの恵みが、あなたがたと共にあるように。」とあります。初代教会の礼拝では、終末信仰を表す、「マラナ・タ、主よ、来てください。」が盛んに叫ばれていたと言われます。当時の教会の信仰は、終末的、主の再臨信仰であると言われます。
しかし、ここに切迫した終末がやって来ない、終末、キリスト再臨の遅延の問題が生じました。主イエスは来ると約束しながら、いつまで経っても来ない。その遅れは、多くの人々の信仰を疑わせました。神は救いの約束を反故し、わたしたちを捨てたのではないかと疑い、彼らの信仰は退廃していき、情熱を失っていきました。ヨハネ黙示録2章18節には「目は燃え盛る炎のようで、足はしんちゅうのように輝いている神の子が、次のように言われる。『わたしは、あなたの行い、愛、信仰、奉仕、忍耐を知っている。更に、あなたの近ごろの行いが、最初のころの行いにまさっていることを知っている。しかし、あなたに対して言うべきことがある。あなたは、あのイゼベルという女のすることを大目に見ている。この女は、自ら預言者と称して、わたしの僕たちを教え、また惑わして、みだらなことをさせ、偶像に献げた肉を食べさせている。』」とあります。3章1節には「サルディスにある教会の天使にこう書き送れ、『神の七つの霊と七つの星とを持っている方が、次のように言われる。『わたしは、あなたの行いを知っている。あなたが生きているとは名ばかりで、実は死んでいる。目を覚ませ。死にかけている残りの者たちを強めよ。わたしは、あなたの行いが、わたしの神の前に完全なものとはみとめない。』」とあります。3章14節には、「ラオディキアにある教会の天使にこう書き送れ。『アーメンである方、誠実で真実な証人、神に創造された万物の源である方が、次のように言われる。「わたしはあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもない熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている。」』とあります。終末信仰の遅延、主の再来という終末の約束が実現しないことから起こった信仰の退廃、「どうしてこんな不条理に遇うのか。どうしてこんなに辛い人生か。」という悩み、挫折、絶望、未来、信仰の喪失が記されています。マタイ9章36節に「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれ、弟子たちを遣わした」とあります。しかし、主イエスは、信仰を失い、虚無と絶望に苦しむ人々を腸を痛めるほど深く憐れみ、救われました。主イエスは信仰を失い、虚無と絶望に苦しむ人々を、はらわたを痛めて憐れむ、それが、ペンテコステ・聖霊降臨です。
使徒言行録1章4節に「そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。『エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。』」とあります。「約束されたもの」とは、ヨハネ福音書14章16節の「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。」とあります。神は約束を果たし、真理の霊、弁護者、助け主を遣わしてくださいました。主イエスの約束が、実現したのがペンテコステです。
テサロニケの人々への手紙Ⅰ5章8節に「信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶり、身を慎んでいましょう」とあります。「身を慎んでいよう」とは、「うやうやしくかしこまる」のではなく、未来に希望をもち忍耐して待つという意味です。フィリピの信徒への手紙3章13節に「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」とあります。「前のものに全身を向け」は「未来に希望を待つ」、「目標を目指して」は「未来に向かって」という意味です。神の約束は必ずなると、勝利を信じて、希望を持って、未来に向かって生きる。それがペンテコステです。使徒言行録2章1節の「五旬祭の日が来て」の「来て」は「スム・完全に」と「プレオロー・満たす」からなっていて、「時が満ちる」という意味で、「神の定めた時、神の時」という意味です。コヘレトの言葉3章1節に、「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。」、11節に「神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されない。」とあります。この「時」は「カイロス」と言い、「決定的な時、神が定めておられる時」という意味です。神のなさる業は始めから終りまで見極めることは許されない、神に委ねることです。チャンスを失ったと、落胆する必要はない、神が与えてくれることを信じて、待つことですあるという。
使徒言行録2章2節に「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。」とあります。「風」は、ヘブル語で「ルーアハ」と言い「神の息、神の霊」を意味し、人間に生命を吹き込む神の息です。人に使命を与え、喜んで生きるように押し出す力、人を刷新するための力です。「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」とあります。炎は、沈んだ人に力を与え、冷えた心を燃え立たせます。課せられた課題と戦う力を与えます。それがペンテコステです。神の霊、聖霊が降ることを待望しましょう。